

J1昇格、そして残留という“悲願”のために。
「HAMA SPIRIT」を掲げ、新たなチームスタイルの構築に踏み出した横浜FC。
その若き先導役としてキャプテンマークを託されたのは、大卒ルーキーの細井響だ。
寄せられる期待の大きさは、誰よりも理解している。
だからこそ、今の自分には全く納得していない。
「サポーターも『細井、何ビビってんだよ』と思っているはず。もっともっと、大胆な姿を見せたい」
挑戦と変化を怖がらない。その覚悟が、未来を切り拓く。
"大胆不敵に、生まれ変わる"

細井響 DF 5
取材・文=北健一郎、青木ひかる

2003年10月31日、“太陽王”がおさめる街・千葉県柏市で、細井響は生まれ育った。
柏レイソルの本拠地・三協フロンテア柏スタジアムは、実家から自転車でわずか5分ほど。
一歩外に出れば、熱を帯びたサポーターがひしめく。そんな週末の光景は、細井にとって物心ついた頃からの“日常”だった。
「実際自分もプレーをしたいなと思ったのは兄の影響ですけど、小学3年生から少年団と並行してレイソルのスクールにも通い始めて。誰に言われるでもなく、自然とレイソルのアカデミーを目指していたって感じですかね(笑)」
ボランチとしてプレーしてきた細井は、精度の高い左足での配球を武器に、小学4年生でレイソルU-12のセレクションに合格。レベルの高い練習と競争に揉まれる日々が始まった。

「加入初日から三角形でのパス練習や人数の多いポゼッションをやって、大変だったなというのは覚えています。よく言われる通り、レイソルのサッカーはアカデミーからトップまで一貫しているんですよね。どの年代でも似たトレーニングを取り組む中で、“止める・蹴る”の基礎はここで身についたと思います」
さらに、U-15を卒団するまでの6年間で磨き上げたのが、攻守におけるポジショニングと、後方からゲームを組み立てるビルドアップ能力だ。
「昔から足が遅いのは自分のウィークポイントだったので、それをカバーするために立ち位置にはすごくこだわってきました。味方をしっかり見て、質の良いパスを出すことも、磨き続けている部分です。その基盤をレイソルでつくれたからこそ、今があると思っています」
幼い頃から憧れ続けてきた地元のチームのユニフォームをまとい、選手としての土台を築き上げていった。

強豪チームがひしめく千葉でも、トップクラスの環境に身を置き、プロへの階段を駆け上がっていくかに思えた。
しかし、学年が上がるにつれ競争は過熱。中学生になりセンターバックにコンバートされたが、公式戦ではベンチやベンチ外が続いた。
「2つ上には、(細谷)真央くんや(熊坂)光希くんがいて、1つ上には(新保)海鈴くんがいて……。強かったですね。僕たちの代はみんな仲良しだったんですけど、上に比べて大会でいい結果は出せなかった。自分も全然試合に出られなくて、一つ自分のキャリアの中で挫折の時期だったかなと思います」
タレント揃いのチームで、序列は3年間変えることはできず。
ユースへの昇格を逃し、“エリートコース”からは外れる形となった。
このままでは、自分はダメになる──。
危機感を感じた細井は、公立の古豪である習志野高校に進学を決めた。
「日本体育大学柏高校がレイソルと提携していて、そこのサッカー部に入るという選択肢もありました。だけど、ユースに進む選手たちも全員その高校に通うことが決まっていて……。大きく環境を変えようと思って決めました」
進路に悩んだ際、コーチ陣やOB選手のコネクションに頼ることも多い中、高校も大学も自分で情報を調べ、進む道を選んできた。
そのこだわりからは、選び取った決断を環境や第三者のせいにしたくないという、細井の芯の強さが伺える。
「習志野に『雑草のごとく逞しく』っていう校訓があったんですけど、本当にそれを体現するような、泥臭いチームでした。フィジカル面でかなり苦労したし、上の学年でもレギュラーで出られるような、絶対的な存在にはなれなかった。だけどまた、自分の課題を知るきっかけになりました」


中学、高校と、思うようにいかない時間を過ごしてきた細井が選んだのは、北信越地域の強豪である、新潟医療福祉大学。
「ここを逃したら次はない」と、サッカーだけにより集中できるよう、地元から遠く離れた環境で自らを追いこもうと決意した。
そこで出会ったのが、かつて桐光学園高等学校で中村俊輔氏や福森晃斗(北海道コンサドーレ札幌)をはじめ、一流のプロ選手を育ててきた、佐熊裕和監督だ。
「監督から言われたのは、『とにかく武器である左足のロングキックを、どんどん出していってほしい』ということ。厳しいですけど、“選手を成長させたい”という気持ちが強くて、愛ゆえのものなので。すごくありがたかったです」
それまで足りない部分に目を向けることが多かった細井にとって、自身の“強み”を認められたことは大きかった。
さらに転機が訪れたのは、リーグ戦でメンバー入りしはじめた、大学2年生の夏。あるJ2クラブから声がかかり、初めての練習参加を経験したことが、追い風となる。
「それまでは、通用するのか?という気持ちも正直ありましたけど、練習参加をしてみたら、思ったよりスッと馴染めて、やれた感覚があって。やっと土俵に立てたというか、現実的にプロを目指せるなと思えるきっかけになりました。横浜FCの福田(健二)さんと挨拶をしたのも、ちょうどその時期だったかなと思います」
日に日にプレーに自信が宿り、フィジカル面の強化にも精力的に取り組んだ細井は、最終ラインの要に。
そして大学3年生の3月、横浜FCへの加入内定を勝ち取った細井は、プロサッカー選手としての扉を、自らの力でこじ開けた。


ようやくつかんだ、憧れの舞台。
しかし、遠回りをしてきたこれまでとは対照的に、細井は内定発表からわずか1カ月後、4月16日のルヴァンカップ2回戦で、特別指定選手として、いきなり先発に名を連ねた。
さらに9月以降は、プレー経験のないウイングバックの位置で、J1残留を懸けたシビアな戦いに挑むことになった。
「自分が出ることでベンチに回る選手もいる中で、J1残留を達成することを第一優先に考えた上で僕が選ばれている。だからこそ、とにかくチームのために自分ができる限りのことをしよう、と。ただそれだけでした」
現役大学生にとっては、あまりにも大きなプレッシャー。
それでも、迷わず目の前の試合に向き合い続けることができたのは、佐熊監督の教え子でもある福森晃斗の存在が大きかったと、感謝の思いを口にする。
「福くんは、練習後にも自主練に付き合ってくれて、クロスの上げ方やボールを止める位置など、いろんなアドバイスをくれました。なにかと気にかけて声をかけてくれて、本当に頼れる存在でした」
今季、福森がつけていた「5」を引き継いだことについて「つけられるなら、絶対自分がつけたかった」とはにかむその表情からも、どれだけ福森を慕っていたかが伝わってくる。
「横浜FCへの加入を決めたのも、3バックの左で福くんみたいにプレーしたいと思えたことも大きな理由の一つでした。チームは変わっちゃいましたけど、尊敬する先輩です」
いつか背中を追い越したい──。その思いは、プロキャリアをスタートさせた細井にとっての、大きなモチベーションの一つになっている。

激動の2025年を終え、迎えた新シーズン。
細井は「即戦力ルーキー」として寄せられる大きな期待に応えるため。そして、1年目では異例とも言えるチームキャプテンに任命された責任を全うするために、一皮剥けようともがいている。
今季から指揮官に就任した須藤大輔監督が追求する攻撃的な戦術は、チーム随一のサッカーIQを持つ山田康太も「できたら楽しいし、チームは強くなる。ただ難しいし、時間がかかる」と話すほど。
チームとして試行錯誤が続く中、もともとビルドアップ能力に自信のあったはずの細井は、誰よりもそのもどかしさを抱えている。
「自分でも全然力を出せてないなというのは分かっていて、考えすぎてしまっていることも分かっています。去年のようにのびのびやればいいという一方で、それだけじゃ通用しないという自覚もある。このままだとどんどん抜かされて、ポジションも奪われるだろうなと感じています」
ただ、新たなスタイルへの挑戦も1年目からのキャプテン就任も、誰にでもできる経験ではないことは間違いない。
悩んでいる自分を認めながらも、細井は「逃げたくない」と前を向く。
「これまでは、自分の性格的にどうしても保守的になり、ミスしないように安全なプレーをしてしまうことが多くありました。でもそれじゃダメだと、開幕して何試合かやってみて、改めて感じさせられている部分です。ミスを恐れない姿を見せられるように、ここから巻き返します」
守りの姿勢から、攻めの姿勢へ。
『雑草のごとく逞しく』を体現してたどり着いたプロの舞台での挑戦は、まだ始まったばかりだ。









細井響/DF 千葉県柏市出身。2003年10月31日生まれ。183cm、77kg。
5歳からサッカーを始め、小学4年生で柏レイソルU-12に加入し、中学卒業まで6年間在籍。“止める・蹴る”の技術とポジショニング、ビルドアップ能力を磨いた。U-18への昇格は逃したものの、市立習志野高校を経て新潟医療福祉大学へ進学。最終ラインの主軸として成長を遂げ、3年次の2025年3月に横浜FCへの加入内定を勝ち取った。内定後は特別指定選手としてルヴァンカップでデビューを果たし、リーグ戦にも8試合出場。飛距離のあるロングスローと左足のキックで、注目された。正式加入した今季はプロ1年目ながらキャプテンに抜擢され、次世代のリーダーとして期待を集める。