

2022シーズンのプロデビューから5年。
二度の武者修行を経て、アカデミー出身の杉田隼が横浜FCに帰還を果たした。
壁にぶつかっても、何度でも立ち上がる。その生き様には、不死鳥のエンブレムがよく似合う。
「今度こそ、このチームを『勝たせる』選手になりたい」
変わらないクラブへの愛を胸に戦う、若きディフェンダーの“三度目の挑戦”が、ここから始まる。
"遠回りを、無駄にはしない"

杉田隼 DF 19
取材・文=北健一郎、青木ひかる

「バラバラにならないよ!取りに行くよ点!!」
3月21日に行われた第7節・SC相模原戦。
2点のビハインドを背負って迎えたハーフタイムのロッカールームに、よく通る声が響く。
「全員でやるよ。勝つよ。絶対勝つよ!!!」
円陣の前、畳み掛けるように再び仲間を鼓舞したのは、この日最年少でピッチに立っていた杉田隼だった。
1月に22歳の誕生日を迎えたばかりの若きディフェンダーは、ピッチに戻ってからも最終ラインから味方に言葉をかけ、チームの士気を高める。
そして54分には、リスクを恐れずペナルティーエリア内に侵入し、同点弾をアシスト。
反撃体制のチームの勢いを逆転勝利へと導いた。

「『負けさせない』じゃなく、『勝たせる』選手になりたい」
松本山雅FCからの期限付き移籍終了後、並々ならぬ気概をもって横浜FCに戻って来た杉田は、プレシーズンのキャンプから予測能力の高さを生かした守備と、積極的な攻撃参加で、アピールを続けてきた。
惜しくも開幕スタメンは逃したものの、第5節・ヴァンラーレ八戸戦以降はスタメンに定着し、守備の要である中央のセンターバックとして奮闘している。
「小学生の頃から、ボール保持を放棄せずビルドアップにこだわりを持つチームで力を発揮して来た自分にとっては、強みが出せるチャンスでもあるし、手応えも感じている。若手の勢いが足りないということも監督から言われている中で、プレーでもそれ以外でも、自分が率先して周りを引っ張っていきたい」

堂々とした振る舞いは、高卒ルーキーとしてチームに加わった4年前とは見間違えるほどに、たくましさを増している。

2022シーズンに横浜FCユースからトップチーム昇格を果たした杉田は、今年大卒ルーキーとしてチームに加入した細井響と同い年にあたる。

だが、プロキャリアとしては、早くも5年目。
デビューからの4年間を振り返れば、「まったく上手くいかなかった」と悔しげな表情を浮かべる。
描いていたプランが崩れ始めたのは、2年目の2023シーズン。
チームがJ1 で苦戦を強いられる中、ベンチにも入ることができず、消化不良の日々が続いた。
「センターバックは一つのミスが失点に直結する分、監督からの信頼度が如実に現れるポジションだと思っています。リーグ戦で勝てていない状況で、経験のない高卒の選手を試しづらいだろうというのも分かってはいましたし、その壁を越えるだけの実力がなかったと、自分に矢印を向けるようにはしていました。ただ、1年目は難しくても、2年目はもう少しメンバーに絡める想定でいたし、コンディションは良かったので、歯痒かったです」
実戦経験を摘むべく、開幕後の3月にFC岐阜への期限付き移籍を決めた杉田だったが、膝のケガに悩まされ、出場は7試合に留まった。
さらに、横浜FCに戻った2024シーズンには、開幕の1週間前に肩を脱臼。
リハビリを終え、ルヴァンカップの1試合に出場した直後に、今度は肉離れで戦線を離れる形となった。
「ここからって時に、なんで?という気持ちには、どうしてもなりますよね。ネガティブになりすぎないようにとは思っていましたけど、やっぱり落ち込んだ時期はありました」
それでも、苦しい時間が長く続けば続くほど感じられたのは、1日も早くピッチに戻れるよう、サポートしてくれる人たちの温かさだった。
「特に岐阜のメディカルトレーナーさんは、怪我をしづらい体づくりのアドバイスとか、動かし方のコツを親身になって教えてくれました。あとは、弱音を吐いた時に寄り添ってくれる母と、元気づけてくれる父の存在も大きかったし、早く治してまた頑張ろうという気持ちになれました」
支えてくれた人たちに恩返しをするためにも、ここで諦めるわけにはいかない──。
その強い思いが、杉田の原動力となっている。

度重なる怪我を乗りこえ、精神的な強さを身につけた杉田だが、選手として大きな転機となったのが、二度目の武者修行となった松本山雅FCでの1年だ。
「肉離れが治って、来年どうするかという話になった時に、横浜FCに残るという選択肢もありました。でも、チームがJ1に戻る状況で、自分が出られるかと言われると難しい。レンタル先を探そうと、早めに動いていました」
ただ、移籍先探しは簡単ではなかった。怪我が続いていた影響もあり、思うように話が進まない。
そんな中で声をかけてくれたのが、当時松本山雅FCを率いていた早川知伸氏だった。
「始動ギリギリのタイミングだったんですけど、松本山雅で移籍があって、CBをもう一人欲しいと連絡をもらいました。早さんはユース時代の恩師でもありますし、迷うことなく、即決でした」
横浜FC以外で迎える、初めてのプレシーズン。
キャンプは練習量も多く、日によって練習場所も変わる厳しい環境だったが、「ここで出られなければ後がない」と、食らいついた。
その努力は実を結び、第4節からスタメンに定着した杉田は、プロ4年目にして初めて、主力としてシーズンを戦い抜いた。
「一番大きかったのは、やっぱり怪我をしなかったことかなと思います。無理に筋トレを増やしたり、自主練をやりすぎてバランスを崩さないように、負荷のかけ方をコントロールして、試合の日に万全な状態を合わせることを意識できたことが、良かったのかなと思います」
一方で、チームとしては思うような結果を出せず、下位に沈む状況が続いた。
失点を防がなければいけないディフェンダーとして、力不足や責任を感じながら、これまで味わったことのない新たな悩みにも直面した。
「うまく説明するのが難しいんですが……。チームの中で『松本山雅で試合に出ること』が目標になっている選手と、ここからJ2、J1 へ這い上がってやるという選手との熱量に、差があるように感じていました。個人の課題に向き合うだけじゃなく、その差をどう埋めるために、自分がどう周りに働きかければいいのか……。すごく難しかったです」
正解は見つからないまま連敗が続き、下を向きたくなる日もあった。
それでも、次こそ勝つという思いを持ち続けられたのは、Jリーグでも指折りの熱量を誇る、サポーターの存在が大きかったと、杉田は感謝の思いを語る。
「厳しい声をかけられる時もありましたけど、勝ちたいんだという思いを伝え続けてくれた。あの声援が、どんな時も自分を奮い立たせてくれました。1年で出て行くことになってしまったので、申し訳ない気持ちもありますけど、松本山雅での1年があったからと言えるように、横浜FCで活躍する姿を見せていきたいと思っています」

思うようにいかないことばかりだったかもしれない。
それでも折れずに自分自身と向き合い、心身ともに一回りも二回りも成長を遂げた杉田は、須藤大輔監督率いる“新生・横浜FC”で出場時間を増やし、これまで感じたことのない充実感を味わいながら、1日1日を過ごしている。
「もちろん、岐阜にいた時は岐阜の選手として。松本山雅にいた時は松本山雅の選手として、プロとしての自覚を持ってプレーしてきたことに変わりはありません。だけど、やっぱり横浜FCのユニフォームを着てピッチに立てるのは、自分にとって特別なことなんだな、と。時間がかかったからこそ、改めて実感しています」
第6節のザスパ群馬戦では、ホームのニッパツ三ツ沢球技場で、今季初の完封勝利を挙げることができた。

「三ツ沢で勝ったのは、2022シーズンの天皇杯(ソニー仙台FC戦)以来だったし、デイゲームのお客さんがたくさん入った試合でプレーできたのも、初めてでした。ようやく一人前になれたというか……。感慨深い気持ちになりました」
さらに試合後には、勝利の立役者が挨拶をする恒例行事で、初めてお立ち台に立った。ハマブルーにそまるゴール裏から激励の言葉を受け止めながら、「もっともっと、活躍しなければいけない」と、杉田は気を引き締める。
「ユースの頃は、齋藤功佑くん(東京ヴェルディ)がトップチームで頑張っている姿を見ることが、プロを目指す上での活力になっていました。だから今度は、僕が試合に出続けることで、後輩たちにいい影響を与えられるように。気負いすぎたくはないですけど、アカデミー出身として恥じないように、精一杯頑張ります」
これから先も、順風満帆ではないことが起きるかもしれない。
それでも、杉田はめげることなく、前へ前へと進み続ける。
受け継いだ“憧れのバトン”を、未来へとつなぐために。














杉田隼/DF 神奈川県出身。2004年1月9日生まれ。179cm、65kg。
3歳でサッカーを始め、横浜FCジュニアユースからユースを経て、2022シーズンにトップチームへ昇格。同年3月にFC岐阜へ期限付き移籍し、加入直後から先発の座をつかんだが、膝の怪我に苦しみリーグ戦7試合出場にとどまった。2024シーズンは横浜FCに復帰するも、度重なる負傷で思うような出場機会を得られず。戦線復帰を果たした2025シーズンは松本山雅FCで主力に定着し、リーグ戦26試合に出場した。2026シーズンに再び横浜FCへ復帰。読みの鋭さと的確なポジショニングを生かした守備に加え、最終ラインからの持ち運びや攻撃参加にも積極性を見せるセンターバックとして、存在感を高めている。