「ご来場ありがとうございます」
スーツを身に纏い、爽やかな笑顔でファン・サポーターを迎え入れるのは、C.R.O.(クラブ・リレーションズ・オフィサー)を務める、内田智也。
プロサッカー選手として、11年。
クラブスタッフとして、7年。
立場は異なれど、人生の半分を横浜FCと一緒に過ごしてきた。
「必要とされる限り、できることをしたい」
今も変わらないひたむきさと情熱を胸に、愛するクラブと歩んできた“ウッチー”の半生を振り返る。
過去と未来をつなぐ、ハマのプリンス
横浜FC C.R.O
内田 智也
取材・文=北健一郎・青木ひかる
「大きな挫折はなかったけど、いつも“ちょっとの悔い”が残る選手キャリアだったかもしれない」
現役生活をこう総括する内田は、三重県の菰野町で生まれた。
「3兄妹の末っ子だったので、めちゃくちゃ甘やかされて育ってましたね。容赦なかったのは3つ上の姉くらい(笑)。ゲームや遊びで負けて、悔しくてよく泣かされていました」
スポーツ万能な家系に生まれ、なかでも6つ上の兄は一番身近な憧れの存在。歳の離れた尊敬できる背中を追い、見様見真似でボールを蹴り始めたことがサッカーに触れたきっかけだった。
「ちゃんと少年団に入ったのは、小学校1年生。そこから4年生になった頃にJリーグが開幕して、カズさん(三浦知良)のプレー姿をずっとテレビで見ていました。ああ、プロサッカー選手ってカッコイイな。好きなことが仕事にできたらいいなと、漠然と思っていました」
ただ、中学校に進学すると、初めて壁にぶつかった。
周りの同級生にみるみる身長は抜かされ、試合の中でも走り負けたり競り負けたりと、小柄な体格でプレーする難しさを味わった。
「でも、自分の課題にわりと早めに気づいたおかげで、それでもプロになるために何が必要で、どこを磨けばいいのか、中学生ながら真剣に考えられるようになりました。そこから、強みの一つであったドリブルを磨くようになって、あとはとにかく走っていましたね(笑)。体格で負けても、体力では負けないようにと必死でした」
クラブユースや強豪校ではなく、地元の中学のサッカー部に所属していた内田の成長を促したのは、毎日練習後に記していたサッカーノートだった。
1日の練習でできたこと、できなかったことを振り返り、次の日に活かす。そんな3年間を過ごしながらプレーの幅を広げ、“攻撃的MF”としての才を磨いていった。
高校では名門・四日市中央工業高校への進学を決めた。
部員数100人を超える強豪では、新入生に対し“度胸試し”とも言える走り込みが行われ、リタイアも出るなか、必死に喰らいついた。
「三重から名古屋に出れば、クラブユースなどの選択肢があったのかもしれません。だけど、兄が四中工に通っていて、後を追いたかった。高3の選手権予選で負けてしまい全国の舞台に立てなかった姿も見ていたので、『代わりに僕が』という気持ちでした」
叶わなかった兄の夢。
そのバトンを引き継いだ内田は、日々の厳しい練習をこなしレギュラーを勝ち取り、主力メンバーに。そして高校最後の冬に“有言実行”を果たし、全国高校サッカー選手権に出場。ベスト8の成績を収めた。
「ただ、ギリギリ国立競技場のピッチに立つことができなかったんですよね。しかも負けてしまった試合の前日に怪我をして無理をして出たので、全然いいプレーができなくて……。それが勝敗に直結したかはわかりません。でも、その先まで進めていたら、また全然違うサッカー人生になってたのかもしれない。一方で、“あと一歩”だったのがなんとも僕らしいとも言える(笑)。それが前に進む原動力になったとも思います」
「背が小さくても、プロで活躍できることを示したい」
そんな内田に、Jリーグ加盟1年目を戦う横浜FCが声をかけたのは、2001年の夏のこと。
横浜は馴染みのない街ではあったが、前年には1学年上の先輩である北村知隆氏が加入したチームだった。
「下から這い上がる過酷な道かもしれない。それでも、ここから上を目指そう」
覚悟を決めて加入した内田は、「“クラブの顔”と呼ばれる選手になるとは思わなかった」という。
「練習場も固定のグラウンドがなかったり、シャワーもお金を払わないと浴びられなかったり……。大変なことは山ほどありました。でも、ひとつ言えるのはキャリアのスタートが、横浜FCでよかったな、と。もちろん1年目からJ1クラブに入ることが目標ではありました。だけど、何もそろっていないことがスタンダードになって、一から作りあげていく、自分たちの手で勝ち取って状況を変えていく過程を経験することができたのは、すごく大きかったです」
加入3年目の2004年には、当時指揮を執っていたピエールリトバルスキー氏の指名で“背番号10”を託された。
高卒生え抜きとして期待されているという自覚はあったものの、まだ21歳の若手にとってかなりの重圧であったことは間違いない。
「リティ(リトバルスキー)もすごく小柄でテクニシャンだったので、僕にシンパシーを感じて任せてくれたんだと思います。付けたくても付けられない番号だし、ものすごく光栄でうれしかった。でも、高校時代もずっと『8』をつけていて『10』というタイプではないので、プレッシャーに負けそうになっていました」
それでも、徐々に責任感が芽生え始め真面目な性格も相まって、チームをけん引する中心選手として、愛される存在となった。
高卒1年目で加入した2002シーズンから2007シーズンまでの6年と、2012シーズンに復帰してから2016シーズンまでの5年。
一口に思い出を尋ねられても「ありすぎて話きれない」と、内田は困ったように笑う。
「最初の6年間で言うと、2005年にカズさんの加入が決まった時は、衝撃でしたね。メディアもたくさん来て、初めて練習で緊張しました。そこからガラッと環境も改善されて……。J1に昇格した2006年には、試合を重ねるごとにどんどんチームがまとまっていって、戦い方が確立されていく感覚を実感していました。たしかアウェイゲームが終わったバスの中で決まって、みんなで大はしゃぎしたなあ(笑)」
しかし、悲願を達成しクラブ史上初のJ1で戦うことになった2007シーズン、リーグ戦の勝利数はわずか4。出場数も前年度を下回り、チームとしても個人としても難しい1年となった。
そんな折に、母校である四中工の名将・樋口士郎氏の弟、靖洋氏が率いる大宮アルディージャからのオファーが届く。
「最後までものすごく迷いました。横浜FCは自分をプロにしてくれたクラブですし、1年でJ2に降格させてしまった責任を感じていたので……。でも、四中工の先輩でもある靖洋さんが『力を貸してほしい』と声をかけてくれて、自分を必要としてくれているのがすごくうれしかった。クラブもステップアップしたいという僕の気持ちを汲んで送り出してくれました」
熟考の末、惜しまれながらも横浜FCを離れることを決めた。
大宮で充実した3シーズンを過ごした内田。
しかし、その後移籍したヴァンフォーレ甲府では、リーグ戦では9試合の出場に留まり、再び苦難の年となった。
1年で契約満了となり、次の活躍の場を探していた2011年の冬、内田の元に一本の着信が入った。
『また、一緒にサッカーをやらないか?』
声の主は横浜FCの強化部長に就任した、元チームメイトであり、大先輩の奥大介氏。断る理由も、迷う理由も、どこにもなかった。
「新体制発表会の時に『はじめまして』と挨拶したら、サポーターがみんな笑ってくれて(笑)。ホッとしたのを覚えています」
もう一度、このクラブをJ1に連れていきたい──。
熱い思いが再び込み上げてくる一方、“生え抜きのホープ”だった一度目の在籍時とは違い、年齢は30歳に差し掛かり、“ベテラン”の立ち位置に。
若手とのポジション争いも激しく、試合に出れない時にどう立ち振る舞うか、頭を悩ませることもあった。
「やっぱり悔しい時間が長かったですね。5年間でちょっとずつちょっとずつ、試合に出れることが少なくなって……。メンバー外が続いているなかチームに貢献できるのか、何ができるのか。毎日考えさせられました」
そして、横浜FCでプレーする最後の年となった2016シーズン。
内田にとって、忘れられない試合となったのが、J2リーグ第27節のセレッソ大阪戦だ。
「この年は開幕からずっとリーグ戦に出場できていなくて、怪我人が複数出た関係で初めてメンバーに入れた試合でした。ベンチで途中まで試合を見守っていたんですが、0-2から追いついて、残り10分で交代枠が1枠余っていたんですよ。それで僕、『このまま動かないんですか?』と、監督に直訴したらしくて……。めちゃくちゃ生意気ですよね。後から当時のマネージャーに聞いて、そんなこと本当に言ってたのか?って。信じられないですよ(苦笑)」
84分、中田仁司監督は野村直輝(現・大分トリニータ)に替えて内田の投入を決断。
そしてアディショナルタイムに突入し、迎えた90+1分、右サイドからのイバ(横浜FC在籍:2016シーズン~2020シーズン)の折り返しに逆足で合わせ、敵地で逆転ゴールを決めた。
「結果的にこの得点がJリーグで最後のゴールになったので、いい思い出になりました。だけど、正直まだまだサッカーはやりたかった。最終節の松本山雅FC戦も、入って早々に相手のスライディングを受けて、思うようにプレーできなくて。高校の選手権の時のことを思い出しました(笑)。大きな挫折はなかったけど、いつも何かしら“ちょっとの悔い”が残る。そういう人生なんだなって。カズさんに試合後ハグされて、泣いて終わりました」
横浜FCを退団後、冠忠南區足球會(香港)に移籍し「英語圏でプレーしてみたい」という思いを実現した内田は、2017年7月、15年のプロキャリアに終止符を打った。
「結局、復帰1年目の2012シーズンでJ1昇格プレーオフに出たくらいで、最初に自分を横浜FCに入れてくれた田部さん(故・田部和良/元横浜FCゼネラルマネージャー)にも、戻してくれた大介さんにも、いい報告ができないまま終わってしまった」
心に残った“ちょっとの悔い”を晴らすべく、内田は現役引退後、横浜FCに三度目の帰還を果たす。
当初は「HAMABLUE コニュニケーションマネージャー」の肩書きでアンバサダー活動を中心に活動していたが、2019シーズンにはクラブ広報として、選手の取材対応などの実務を担当。
そして現在は、C.R.O.兼ホームタウン・普及グループの本部長として自ら外回りをしながら、地域に根ざす組織作りに従事している。
「選手の時は、『どうしてスタジアムが満員にならないんだろう』と漠然と思っていましたけど、この仕事をして気付かされたのが『お客さんを呼ぶって、こんなに大変なんだ』ということ。やっている施策の効果がすぐに出る場合もあれば、何年か経ってから成果がでる場合もある。いろんな動機が重なって実際に来場しようというところにつながる場合もあるので、数字で測りづらいところもあって、本当に難しいです」
かつてサッカーノートで記録を残し、見返しながら課題を改善していた頃よりももっと複雑で、何が正解なのかはわからない。
それでも変わらないのは、「横浜FCのために」というまっすぐな想いだ。
「『内田さんにとって、このクラブってどんな存在ですか?』よく聞かれるんですけど、正直『わからない』というのが答えです。おそらくそれって、ここを離れてみてからどう感じるかの部分だと思うんですよね。だけど、このクラブは、横浜フリューゲルスの消滅がきっかけで生まれたという、唯一無二の過去があります。今はもう、その成り立ちを知らない人も、だんだん増えてきているかもしれない。僕の使命はそれを伝え続けて、このクラブに携わったすべての人の思いを背負って、つないでいくことだと思っています」
これまでも、これからも、横浜FCと共に。“ハマのプリンス”は描く未来に向かって、前進し続ける。