監督の意図を汲み、試合の流れを読みながら仲間に指示を送る。
取材にも理路整然と応じる駒井の立ち振る舞いは、“軍師”という表現がよく似合う。
ただ北海道コンサドーレ札幌で6年間ともにプレーしてきた福森晃斗は、駒井の性格についてこう語る。
「善成は、誰よりも負けず嫌いですよ。“大負けず嫌い”ですね」
残るリーグ戦は、あと13試合。
諦めの悪いキャプテンが、J1残留への執念を見せる。
“大負けず嫌い”のキャプテン
駒井善成 MF 6

取材・文=北健一郎、青木ひかる
「自分が自分の親だったらと思うと恐ろしいし、ずっと怒っていると思います(笑)」
振り返る本人も呆れてしまうほど、人一倍やんちゃな少年だった駒井は、京都府の郊外にある山科区で生まれ育った。

初めてサッカーボールを蹴り、ゴールを決めた時の記憶は、鮮明に覚えている。
「幼稚園でサッカーをしていた時に、友達が蹴ったボールがクロスのような形になって、シュートを打ったら綺麗なゴールが入ったんです。それがもう、めちゃくちゃ気持ちよくて。『サッカーって楽しいな』と思ったのは、よく覚えています」
ちょうど同じ頃、活発すぎる駒井を心配した祖父が「スポーツをやらせたほうがいい」と両親に提案し、「野球かサッカーか」と聞かれた駒井は迷わず「サッカーがいい」と答えた。
加入した少年団は、山科区内でも下から2、3番目の実力で、活動は週に1回あるかないか。それでも、練習が楽しくてしかたがなかった。
特にチームの方針として力を入れていたドリブルは、相手と1対1で対峙した際の勝ち負けがわかりやすい、個人技の一つ。
「やるからには、誰にも負けたくない」
“大負けず嫌い”にはぴったりなドリブルのテクニックを極めることで、駒井は自身のプレースタイルの軸を形成していった。

やんちゃな少年からサッカー少年になった駒井だが、サッカーを始めた当初は「サッカーを観ることには興味がなくて、Jリーグのことはよく知らなかった」という。

しかし、小学4年生への進級を前に父の知り合いから「(当時の)京都パープルサンガジュニアのセレクションを受けてみないか」と誘いを受けたことが、大きな転機となる。
「話をされた時は『受けてみてもいいかな』くらいの気持ちでした。試合もほとんど観に行ったことはなかったし、実力試しにやってみるかくらいの感覚でした」
とはいえ、いざセレクション当日になると“大負けず嫌い”の性分が顔を出し、得意のドリブルで抜群の存在感を発揮した駒井は、晴れてJクラブアカデミーの一員となった。
その実力は徐々に京都府内でも知られるようになり、同学年のスター選手として名を馳せていた宇佐美貴史(ガンバ大阪)とも、京都選抜のチームメイトとして切磋琢磨した。

「当時は『俺も宇佐美に負けてへん』って思っていましたけれど、総合力で言ったら全然負けていました(笑)。でも、ドリブルだけなら互角だったかもしれない。それくらい、自分の武器だと思っていたし、自信はありました」
一方、チームの意向もあり、高校生になってからは、サイドだけでなく様々なポジションを任されるようになった。
「一番キツかったのは、高校2年生で初めてボランチを任された時ですね。最初は何もできなくて、サブに回されることもありました。でも、そのおかげで“考えてプレーする力”は、すごく養われました」
ドリブルに加え、ユーティリティプレーヤーというもう一つの強みも手に入れた駒井は、トップ昇格を勝ち取り、高校卒業と同時にプロの世界へと足を踏み入れた。
駒井がサンガのトップチームに昇格した2011シーズンは、J2降格となった影響でメンバーが前年と大きく入れ替わり、若手中心のチーム編成となった。
「正直、チャンスだと思った」という駒井だが、キャンプ初日で甘くない現実を突きつけられる。
「練習が始まって最初のボール回しの時点で、何度やっても僕のところで詰まってしまうんですよ。もうその瞬間に『あ、自分が一番下手なんだな』と自覚しました。案の定、練習試合でもBチームの試合にすら出られなかった。ゼロからのスタートでした」
試合に出られるようになるには、どうしたらいいのか。
考えた先に行き着いたのは『監督から求められていることを誰よりも理解し、体現する』ことだった。
「僕で言えば、とにかくドリブルでアピールするのも手段の一つ。ただプロである以上は、監督に求められたことをピッチでできるかどうかが、選手として何よりも大事なことじゃないかな、と。我が強すぎた小学生の頃の自分じゃ考えられないですけど、そのマインドは今でも変わらないです」
全体練習後には毎日1時間は居残り、当時監督を務めていた大木武氏(現ロアッソ熊本監督)が提示する攻守の動きや強度を身に付けるため、自主練習に励んだ。
「全然ドリブルをするようなポジションじゃない[3-4-3]のダイヤモンド型の右で起用されて、『違う選手が出た方がいいんじゃないか』と思うこともありました。でも、任されたからには役割を全うしようと、必死にやっていました」
葛藤を乗り越えながら、徐々に本来の主戦場であるサイドでの出場機会も増えていき、駒井は“古都のメッシ”としてファン・サポーターからも愛される存在へと成長していった。


「京都のことが本当に大好きだったし、ほかのクラブのユニフォームを着るなんて考えられなかった。京都でJ1に昇格して、地元で現役を終えることしか考えていませんでした」
しかし2015シーズンの11月、浦和レッズからオファーが届いたことが、キャリアの大きな岐路となる。
「今でこそ、J2からJ1の上位クラブに移籍するのは珍しいことではないですけど、あの頃はあまり前例がなかったので、本当に予想外でした。すごく悩みましたけど、もう二度とこんなチャンスはないかもしれないと、移籍を決めました」
浦和レッズを率いるのは就任5年目を迎えたミハイロ ペトロヴィッチ氏。ミシャの愛称で親しまれ、“全員攻撃・全員守備”の大胆な戦術でJリーグを席巻し、駒井のキャリアに最も影響を与えた指揮官だ。
ただ、今でこそ愛弟子として“ミシャサッカー”を理解している自負があるものの、練習初日は「一体何が起きているのかわからなかった」と、苦笑いを浮かべる。
「スピードに全然ついていけないし、紅白戦でも集中して守っているはずなのに、簡単に裏を取られる。正直とんでもないところに来ちゃったと思ったし、試合に出られないままクビもあり得るなと、覚悟しました」
そんな心配とは裏腹に、どのポジションでも『求められていることを体現する』駒井の実直さは、約束事や規律が確立されている“ミシャサッカー”にピッタリとハマり、加入1年目からリーグ戦23試合に出場した。
さらに2018シーズン、ペトロヴィッチ氏が北海道コンサドーレ札幌の監督となると、駒井も札幌へと活躍の場を移し、“ミシャの申し子”と呼ばれるまでに師弟関係を深めていく。
「札幌では、キーパー以外全部のポジションをやったと思います。常に意識していたのは、自分が出る代わりに、ベンチやメンバー外になる仲間がいるということ。だからこそ『慣れていない』は通用しないし、僕が出ることでの“違い”も見せなきゃいけない。求められているタスクはこなしつつ、どう“自分らしさ”を出すかにもこだわれていたからこそ、評価してもらえていたのかなと思います」
浦和レッズと北海道コンサドーレ札幌での2クラブで“恩師”とともに過ごした7年半は、自身のサッカー観とプレーの幅を広げる上で、掛け替えのないものとなった。



J2からステップアップし、駒井はペトロヴィッチ氏とともに、一蓮托生でJ1の舞台を戦ってきた。
しかし、何事も永遠に続くことはなく、J2降格が決まった2024シーズンに監督退任が発表された。奇しくも、契約更新のタイミングだった駒井にも満了が告げられ、札幌を離れることになった。
「J2になって予算規模も変わりますし、更新は難しいだろうなと思っていました。自分としては少し年俸が下がっても札幌で……という気持ちもありましたけど、退団という形になりました」
新天地に選んだのは、横浜FC。決め手となったのは、北海道コンサドーレ札幌時代にコーチを務めていた四方田修平監督からのオファーだった。
「最終節が終わったその日の帰りに、ヨモさんから電話がかかってきて『力になってくれないか』と。直々に声をかけてくれたのは、本当にうれしかった。即答はできなかったですけど、少しだけ悩んで、横浜FCへの加入を決めました」
ただ、「J1残留」を目標とした時の戦術の“理想”と“現実”のギャップや、過去に自力で残留を達成したことがないという背景は、予想以上に駒井の頭を悩ませた。
「連敗が続いて、よりシンプルにロングボールを活用するようになったことは、決して悪いことではないと思います。ただ、蹴った後のアクションについては、選手同士で擦り合わせて、もっとできることがあったのではないかな、と。
状況を打開するためのチャレンジではなく、どんどん消極的なプレーや空気になってしまうのは、クラブとして残留の経験がないからこその難しさでもあるのかなと感じています」
5月17日の第17節湘南ベルマーレ戦での勝利を最後に、リーグ戦は連敗が続き、2カ月にわたって悪い流れを断ち切ることができず。7月23日には、四方田監督の解任が発表された。
「僕たちがもっとうまく監督の要求していることを試合で出せていれば、こういう結果にはならなかった。ヨモさんに横浜FCに呼んでもらった身として力になりきれなかったことは、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです」
ただ、すでに消化してしまった試合を、やり直すことはできない。
三浦文丈新監督が就任した今、「一日でも早くフミさんのサッカーを理解し、勝ちにつなげたい」と、駒井は決意を新たにする。
「昨シーズンの北海道コンサドーレ札幌は同じ時期に、勝ち点11しか積めていない状態でした。でも8月以降に調子を上げて、勝ち点37まで積むことができた。今シーズンは幸いなことに上との差もそこまで開ききってはいないし、残留できる可能性は十分にあると思っています」
とはいえ同じ後悔を繰り返さないためにも、チームに向け「大事にしたいこと」を改めて強調する。
「何度も話すように、まずはフミさんが求めることに対して、全員で真摯に取り組んでいきたい。チームがバラバラにならずに戦えれば、浮上するきっかけはつかめると思っています。試合だけでなく準備のところから、僕自身がブレずにやり続けます」
監督を信じ、仲間を信じ、自分を信じて全力を尽くす。
キャプテン・駒井の揺るがない姿勢をチーム全員で貫いたその先に、「みんなで笑い合える」未来が待っているはずだ。



駒井善成/MF 1992年6月6日。168cm、67kg。
6歳でサッカーを始め、小学4年生にセレクションを受け、京都パープルサンガジュニアに加入。幼少期から磨いてきたドリブルを武器に、京都サンガF.C.U-15、U-18を経て、高卒プロ選手としてトップチームに昇格。“古都のメッシ”の愛称で愛された。2016シーズンに浦和レッズへと完全移籍。当時監督を務めていたミハイロ ペトロヴィッチ氏の絶大な信頼をつかみ、ACL出場やYBCルヴァンカップ優勝を経験した。2018シーズン、北海道コンサドーレ札幌に加入。GK以外こなすユーティリティプレーヤーとして活躍し、2024シーズンはキャリアハイの6得点を決めた。2025シーズン、横浜FCへ完全移籍。豊富な運動量と培った戦術眼を生かし、クラブ史上初のJ1自力残留へと導く。