「僕、32歳の時に一回辞めようかなって思っていたんですよ」
インタビュー中にさらりとそんな話を明かしたのは、背番号15番・伊藤翔。
18歳で海を渡り一世を風靡したストライカーは、プレーの幅を広げた万能型フォワードとなり、プロ17年目を戦っている。
「だけど、まだ全然やれるなって欲が出てきた。つなぎとめてくれた横浜FCのためにも、目に見える結果を残したい」
来年もJ1のピッチに立つために。35歳のベテランは静かに闘志を燃やしている。
チームを導く一等星
伊藤翔 FW 15
取材・文=北健一郎、青木ひかる
1988年、7月24日。愛知県春日井市で、伊藤翔は生まれた。サッカーと出会ったのは、5歳の時のこと。地元のサッカークラブの活動を見て、心惹かれたことがはじまりだった。
「小さい頃は、ほかにもいろんな運動をしました。水泳と陸上、拳法とか。あとは母親の影響で書道もやりましたし、なんでもやっていましたね」
幼い頃から多才ぶりを発揮していた伊藤だが、一番のめり込んだのはサッカーだった。スポーツ万能な両親からの1番の贈り物は、恵まれた体格。父は180cm、母も170cmと高身長のDNAを受け継ぎ、小学生チームの名古屋SCでは「デカくてうまい」と、すでに一目置かれる存在だった。
「最初はセンターバックとキーパーをやっていました。とりあえずサイズはあるから、『GKならナショナルトレセンいけるぞ!』なんて言われて。小4の途中からフォワードをやり始めて、そこから前線のポジションを任されることが多くなりましたね」
選手プロフィールにこそ記載はないが、伊藤は中学校入学当初、名古屋グランパスのジュニアユースでプレーをしていたという。
「毎日電車で片道1時間以上かかるし、さらに最寄駅から登り坂が続くんですよ。1年は頑張ったんですけど、ちょっともうしんどくなっちゃって」
Jクラブの育成組織という環境よりも、個人のコンディションを優先した伊藤は、中学2年生で地元の街クラブであるFC FERVOR愛知に拠点を移した。
名古屋のジュニアユースという“プロへの近道”を手放した伊藤だったが、持ち前の身体能力の高さを生かし、中学3年生ではU-15の日本代表に招集された。
そんな逸材に早くも目をつけたのは、のちに師となり「自分の力を一番伸ばしてくれた」と慕う、中京大附属中京高校の道家歩監督だった。
「チームのコーチが中京だった関係で、平日の夜に時々練習を見にきてくれました。中2になってボランチでも試合に出たりしていたんですけど、『あいつは絶対フォワードだろ』と話をしてくれていたらしいです」
Jクラブのユースではなく、高体連の道を選んだのは「全国高校サッカー選手権大会」への憧れも大きかった。初めて会場で愛知県予選の決勝を見たことでその思いを強めた伊藤は、中京大中京高校への進学を決めた。
「高校に入って、技術はもちろんそれ以外の部分でも成長することができました。道家監督はただ『ピッチ外も大事』と言うのではなく、それがサッカーにどう影響するのかを説明してくれた。選手の前に一人の人間としてということを教えてもらいましたね」
最大の武器であるスピードに加え、左サイドでの緩急をつけたボール運びは、道家監督仕込みの基礎練習によってもたらされた賜物。
さらにワンランク上の技術を身につけるべく、伊藤を呼び出してのビデオ講習が行われ、当時アーセナルで活躍していた、ティエリアンリやデニスベルカンプの動きを徹底的に刷り込まれた。
ピッチ内外でスキルを磨いた伊藤は、同年代からも憧れられる、“超高校級ストライカー”へと変貌を遂げた。
高校年代ではすでに名の知れていた伊藤だが、さらに知名度を高めたのが、プレミアリーグ(イングランド)の名門であり、プレーの参考元となったアーセナルへの練習参加だった。
「最初はグランパス時代のベンゲルさんと道家さんとのつながりで、練習に参加させてもらったことがきっかけでした。そしたら、『もし特例が使えたら、うち(アーセナル)に来るか?』と。『行きます』と言うに決まっていますよね」
日本の18歳が、アーセナルから声をかけられた──。
このビッグニュースは“和製アンリ”の代名詞とともに報じられ、日本のサッカー界に伊藤翔の名前が広く知られることとなった。ビザが下りずにプレミアへの道こそ絶たれたものの、フランス2部・グルノーブルフット38への加入が決定。当時ではほぼ前例にない、高卒ルーキーでのヨーロッパリーグへの挑戦が実現した。
しかし、待ち受けていたのは異国の地での苦難の日々だった。
「途中で松井大輔さんも同じチームになって可愛がってもらいましたけど、1年目で日本人の先輩がいなかったのはかなりきつかったです。体もメンタルも、今振り返れば明らかに準備不足でした」
2年目以降はもも裏の怪我にも悩まされ、1年半、サッカーができない日々が続いた。2009-2010シーズンには念願のリーグ・アンでデビューを果たすも、在籍4年での出場はわずか5試合にとどまった。
「体型のバランスも向こうの筋トレでおかしくなっちゃって、日本に戻って一からやり直そうと思って、清水エスパルスへの移籍を決めました」
伊藤はフランスでの生活に区切りをつけ、22歳でJリーガーとしてのキャリアをスタートさせた。
2010シーズンに初めてJリーグのピッチに立った伊藤は、2021シーズンに横浜FCに加入するまでの11年で、3クラブを渡り歩いた。
特に横浜F・マリノスは「サッカー選手としての伊藤翔」を構築できた5年だったと振り返る。
「高校1年生の時から練習に参加させてもらっていたんですけど、ミスをすると練習生とか関係なく怒られるんです。それはもちろん正式に加入した時も変わらなくて、ミスは絶対にしないという最低条件をクリアした上で、自分の強みを発揮しなければいけない。改めてプロ選手としての厳しさを感じさせられました」
これまで感じたことのないプレッシャーのなか、2014シーズンはリーグ戦27試合に先発出場しキャリアハイの8ゴールをマーク。2018シーズンにはルヴァンカップで得点王に輝いた。
そして、マリノスとはまた違う厳しさを体感できたと話すのが、2019シーズンに加入した鹿島アントラーズだ。
「もちろん、“常勝軍団”という認識でいました。でも、聞いていた通り入ってみないとわからない独特の空気感がありましたね。土曜の試合が楽だと感じるくらい練習の強度も高いし、躊躇なく削ってくる。選手、スタッフ、もちろん社長も組織の上から下まで同じ方向を向いていたし、ちょっと次元が違いました」
マリノス時代と同じく1年目で先発の座を獲得した伊藤は、21試合に先発出場し7ゴールを決め、フォワードとしての存在感を示した。
「鹿島との契約が終わって、カテゴリーを落としてまで選手を続けるイメージがなかったから、もう辞め時なのかなと思って、オファーはほとんど断ってしまっていたんです。そしたら横浜FCから連絡が来て、どうしようと。少し悩みましたけど、条件とタイミングも重なって加入を決めました」
大好きな横浜という街で、またサッカーができる──。
現役引退を考え直し、心機一転で臨んだ1年目だったが、これまで過ごしてきた環境との差は想像以上に大きかった。
「難しいことは理解していたんですけどね。問題だと思うことに対して、アプローチをしようとしても、こっちも『伝わってる?』となるし、相手も『何を言ってるの?』となってしまう。シーズン前に体調を崩したこともあってパフォーマンスを上げきれなくて、かなり困惑しましたね」
2021年8月、出場機会を求めた伊藤は、名波浩氏が監督を務めていた松本山雅FCへの期限付移籍を決断。自身初のJ2クラブで過ごした半年が、伊藤の価値観を変える大きなきっかけとなった。
「たとえば、20歳くらいの若手にこの先のことを聞いても『まずは現状維持』という返事が返ってくるんです。上ばかりをみていた自分としては、結構衝撃的でした。本心はわからないけど、そういう選手もいるんだなと。線路が一本開通した感覚にはなりました」
長く第一線で戦ってきた自分の経験やものさしだけで周りをはかってはいけない。
その前提を踏まえた上で、誰に何を伝えるかを取捨選択するため、周りとコミュニケーションを取る時間を以前よりも大切にしている。
「尖っていた頃の自分だったら『もう俺がやる』みたいな気持ちしかなかったと思うけど、今は違います。だんだん試合の見え方も変わってきて、『たぶんこの展開だとこうなるな』とか、『この選手はこういう傾向があるな』とわかるようになってきました。そうすると、自分がどういうプレーや声かけをしたらいいかも定まってくる。とにかくチームとして、いかに勝率を上げるかを考えるようになりましたね」
ギャップを埋めるコツをつかんだ伊藤は、チームメイトとより強固な信頼関係を築き上げ、このJ1での戦いに臨んでいる。
いよいよ、2023シーズンの試合も残り2節。まずはホームで湘南ベルマーレとの直接対決を戦い、最終節は自身にとって初のカシマスタジアムへの凱旋試合を控えている。
8月に行われたマリノスとの古巣戦で、伊藤は1ゴール1アシストを決め、“横浜ダービー”の歴史に名を刻んだ。今度はアウェイの地で、鹿島相手の“恩返し弾”にも期待が高まる。
「あの試合は、後半押し込まれた時間帯も全員が集中していて、いくら相手がシュート打っても入らない、完璧なブロックを敷くことができていました。自分としても記憶と記録に残るプレーができたのは良かったですけど、みんなで死に物狂いになった結果です」
どうすれば、あの試合のような攻撃と守備ができるのか。
どうすれば、「最後に笑う」ことができるのか。
残りの試合をどう戦えば、クラブにとっていいものになるか?という問いかけに対し、伊藤はこう答える。
「まずは人任せにせず、自分が行くぞという意識を、選手とスタッフ全員がもつこと。あとは個人のミスを減らして、できることの質を上げることかなと思います。今できないことが明日急にうまくなることはないけど、球際の意識だったり、ボールの落下地点を読むことはすぐにできるはず。結局は自分たち次第だよっていうことは、声を大にして伝えたいです」
紆余曲折しながらも、培った経験と自信を胸に。
J1残留とその先に進むための道標となるべく、伊藤翔はピッチの上で輝きを放ち続ける。
愛知県・春日井市出身。1988年7月24日生まれ。184cm、76kg。5歳でサッカーを始め、中学2年生でFC FERVOR愛知に加入。2003年にはU-15日本代表に初招集された。中学卒業後は中京大付属中京高校に進学し、高校2年生と3年生で全国高校サッカー選手権に出場。3年生の春にプレミア1部のアーセナルに練習参加し、大きな話題を呼ぶと、高卒ルーキーながら当時フランス2部のグルノーブルフット 38のへの加入を勝ち取り、4年間在籍した。海外挑戦に区切りをつけ、2010年に清水エスパルスでJ1デビューを飾ると、2014年に横浜F・マリノス、2019年に鹿島アントラーズの3クラブを経て、2021年に横浜FCに加入した。同年8月には出場機会を求め、松本山雅FCに期限付移籍を果たし、2022シーズンに横浜FCに復帰。加入3年目を戦う今シーズンは、リーグ戦24試合に出場し2得点をマーク。前線からのプレスと周りの良さを生かしたチャンスメイクに長け、ここぞの試合では華麗な技ありゴールでチームを勝利に導く。
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