取材・文=北健一郎、渡邉知晃
中村拓海にはなんとも言えないオーラがある。
ふわふわしているのに、突然スーパープレーをする。
どこか危なっかしい感じが、見るものを引きつける。
他人に何を言われようとも、自分らしさを貫いていく。
唯一無二の存在感を放つ男のこれまでと、これから。
つかみどころがない――。
多くの人が中村拓海に抱いている印象だろう。
何をするかわからなくて、気がつけば目で追いかけてしまう。
そんな男のルーツは九州にある。
大分県大分市出身。男3人兄弟の真ん中だった。
本人曰く、幼少期は「田舎というか……ほのぼのした環境で育った」という。
家のすぐ近くには川が流れていて、魚を釣って楽しんだ。
休みの日にはよく家族で海に出かけた。
写真:本人提供
「名前の由来は……お母さんがたぶん海っていう漢字が好きだったからかな」
1つ上の兄・駿は過去のインタビューで、「子どものころから(拓海の)キャラクターは変わっていない」と答えている。
サッカーを始めたきっかけは「あんまり覚えていない」という。
ただ、兄みたいになりたいなと漠然と思っていた。
「兄は自分より何をやってもできるというか。勉強もサッカーも。憧れみたいなものはありました」
写真:本人提供
ただ、中村にはある特別な才能があった。
「走る」ことだ。
実に小学1年生から6年生まで大分県のマラソン大会で6連覇したのだ。
のちに、東福岡高校の森重潤也監督から「陸上部でも全国レベル」と太鼓判を押されたほどだ。
「両親から出てみる? って言われて軽く参加したら優勝しちゃって。ただ、本当は出たくなかったんです。辛いし、苦しいし、憂鬱で仕方なかった」
走るのは嫌いだった。
練習ではタイムは上がらない。
ただ、本番になるとスイッチが入った。
「負けたくない」。
その気持ちは誰よりも強かった。
中学時代には大分トリニータのジュニアユースに通いながら、学校では駅伝部に所属していた。
とんでもないタイムを叩き出す中村には、陸上の強豪校から推薦入学の誘いもあった。
「俺、マラソン選手になったほうがいいのかな」
そんな風に考えたこともあったが、中村はサッカーを選んだ。
普通に走るのは「3、4キロで嫌になっちゃう」が、ボールを追いかけていれば、いくらでも走れた。
中学3年時には大きな決断を下した。
大分のジュニアユースからユースに昇格する選択肢もありながら、自らの意思で東福岡高校に行くことにしたのだ。
「両親は好きなようにやりなさいと言ってくれたけど、私立だったしいろいろお金もかかる。自分のわがままで迷惑をかけてしまったので、大学に行くなんてことはできないなと」
3年間でプロからオファーが来る選手になる――。
それができなければキッパリとサッカーをやめようと考えていた。
名門・東福岡の選手層は厚い。
高校1、2年生まではほとんど試合に絡めず、プロ入りは夢のまた夢のようだった。
ただ、中村には自信があった。
「1、2年の時は試合に出なくても別にいいやと思っていました。3年生になってから活躍すれば代表にもプロにもなれると」
ビッグマウスのような発言は、しかし、根拠に裏付けられたものだった。
朝は陽が上がる前からグラウンドに行って自主練で汗を流し、チーム練習が終わってからも誰よりも遅くまでグラウンドに残っていた。
中村のポジションである右サイドバックのレギュラーとして立ちはだかったのは1つ上の兄・駿だった。
最終的にはスタメンは勝ち取れなかったが、高いレベルでの競争は飛躍的に実力を伸ばした。
3年生でレギュラーになった中村は、春に行われたサニックス杯で好プレーを見せて、あっという間にプロから注目を集める選手になった。
年代別の日本代表にも選ばれ、複数のJクラブからオファーが届いた。
「自分がやってきたことは間違っていなかったなと思いました」
高校卒業後に選んだチームはJ1のFC東京だった。
「当時スカウトだった羽生(直剛)さんが熱心にオファーをしてくださったのが決め手でした」
1年目こそリーグ戦での出場はなかったが、2年目からは右サイドバックとして試合に絡むようになった。
FC東京では、当時の監督だった長谷川健太氏、そしてコーチの長澤徹氏、佐藤由紀彦氏の3人は中村にとって特別な存在だ。
「自分を成長させてくれた3人の方には感謝しています。健太さんは自分のダメなところをストレートに伝えてくれて、徹さんや由紀彦さんは僕のことをすごく期待してくれて、いつも自主練に付き合ってくれていました」
選手時代はFC東京でクロスの名手として活躍し、引退した今も「選手よりもキックがうまい」(中村)という佐藤氏から実演を交えながら教わったことが、中村の武器である多彩なキックにつながっている。
「練習はもちろんしましたけど、スペースを見つけるのが得意で、どういう風に蹴ったらそこに飛ばすことができるかというのは感覚とイメージでやっています」
「体が勝手に動いている」と語る中村は、目的地があり、そこにどうやったら一番いい形でボールを届けられるかというのを逆算して”自然”に蹴っている。
長澤氏は、毎回プレー映像を編集してくれて、2人でそれを見ながらミーティングをし、プレーの改善を行ってきた。
「未だに連絡をくれるのでありがたいですし、良い指導者に出会えたなと思っています」
プロ4年目、2022年のシーズンを迎えるにあたって、中村は多くの人を驚かせた。
J1のFC東京からJ2の横浜FCへ完全移籍が発表されたのだ。
試合に出られなかった若手が、出番を求めてカテゴリーを下げたわけではない。
事実、2020シーズンは17試合、2021シーズンは18試合でピッチに立っていた。
では、なぜ自らFC東京を飛び出したのか。
中村はあっけらかんと言う。
「四方田(修平)監督も、強化部の方もすごく自分のことを評価してくださっていたので、行ってみようかなって」
中村には、自身のポリシーがある。
誰かに言われたからやるというのではなく、自分がやりたいようにやる。
「自分の思うままにやっていくのが僕の人生のモットーです。そういう人生の方が楽しいじゃないですか」
自分で決めたことだから、そこには責任が生まれる。
自分が決めたことだから、正解にするために全力でやり抜く。
「横浜FCをJ1に昇格させないといけないし、今は勝点も僅差なので1試合1試合大切に戦って、J1でも戦えるチームにしていきたいです」
チームだけではなく、自分自身にもしっかりとベクトルを向けている。
「個人としてはアシストの数字をもっと増やしていきたいですし、守備面では課題があるので、そこを改善していきたいです」
兄からは「拓海は、手先は器用だけど世渡りは不器用」と言われるほど、感情が表に見えにくいタイプゆえに、これまで損をしてきたこともあった。
「やる気がない」と理不尽に怒られたこともある。
ただ、自分らしさを曲げてまで、誰かに合わせたいとは思っていない。
タクミは、タクミのままで――。
最後に「サッカー人生の目標は?」と聞いた。
「チャンピオンズリーグで優勝することとワールドカップで優勝することです」
予想以上に大きな目標が返ってきた。
でも、この男だったら実現させてしまうんじゃないかと思わせられる。
卓越したプレービジョンを持つDF、中村拓海。
その視線の先には、これから切り拓いていく未来がきっと見えている。
最近の趣味は「花」。時々花屋で花を買って生けているそうだ。
大分県大分市出身。2001年3月16日生まれ。179cm、70kg。大分トリニータU-12、U-15を経て東福岡高校へ。高校1、2年までは無名だったが3年時に右サイドバックのレギュラーをつかむと、年代別代表にも選ばれる。2019年、J1のFC東京に加入し、3年間で35試合に出場する。2022年、横浜FCに完全移籍をはたす。精度の高いロングパスと果敢な攻め上がりを武器とする攻撃的なDF。プロフィールページはこちら。