横浜FC

1998年10月29日──。

 

 

「横浜フリューゲルスの消滅」は日本サッカー界に大きな衝撃をもたらした。

 

 

Jリーグ開幕初年度からの“オリジナル10”のクラブを守るべく、全国各地で存続を願う署名活動が行われたものの、思いは叶わず。

 

 

1998年12月25日──。

 

 

新たな市民クラブの創設を目指し、株式会社横浜フリエスポーツクラブが設立され、「横浜FC」の歴史が幕を開けた。

 

 

初代ゼネラルマネージャーとしてクラブの立ち上げに尽力した現・横浜FCシニアアドバイザーの奥寺康彦は、25年間の日々を「本当にあっという間でした」と振り返る。

 

 

代表取締役社長・会長を歴任し、2022年からはシニアアドバイザーを担う奥寺が、横浜FCの「これまで」と「これから」を語る。

 

 

100年先も続くクラブを目指して

横浜FCシニアアドバイザー 奥寺 康彦

取材・文=北健一郎、青木ひかる

 

始まりは、三ツ沢で

 

横浜フリューゲルスの消滅が決まった当初は、実はほとんど関わりがありませんでした。スタジアムでフリューゲルスのサポーターに声をかけられて、署名活動に協力したくらいです。大変なことが起こったとは感じましたが、あくまで第三者として見守っていました。

 

 

それから少し経って……たしか年明けですかね。全日本高校サッカー選手権大会の試合で三ツ沢に行ったら、リティ(ピエールリトバルスキー氏)にたまたま会って声をかけられて。

 

 

ジェフユナイテッド市原時代は監督・選手の関係だったので、他愛もない昔話をしていたところ、「あるクラブから監督をやらないかという話が来ていて、もし引き受けることになったら手伝ってほしい」と相談を受けました。

 

 

その数日後に、「あるクラブ」が新しく立ち上げる「横浜FC」だと知らされました。

 

 

プロサッカークラブの立ち上げに関われる機会なんてほとんどないし、なおかつ市民クラブとして親会社に依存しない、全く新しい形にするという。

 

 

何よりも、フリューゲルスを熱心に応援していたファン・サポーターが目の前で困っている。「自分に何かできることがあれば」という気持ちで、ゼネラルマネージャーの話を引き受けました。

 

 

そこから急ピッチで選手を探しはじめて、ジェフ時代のツテを辿り、契約満了になった選手たちに声をかけました。どうにか15人の選手を集めて、クラブの設立が認められました。

 

 

本当は初年度からJリーグへの参入を目指していたんです。今となってはあり得ない話ですが・・・・・・。JリーグからJFLで2年のうちに優勝か準優勝するという条件で、JFLの準会員に認定され、Jリーグへの挑戦が始まりました。

 

 

 

 

0からのスタート

 

クラブの運営にあたって、一番の問題である資金については、ソシオフリエスタ(現クラブメンバー)の約3,000人からのお金、スポンサー企業からの出資を含めて、3億円ほどのお金が集まりました。

 

 

最短でJリーグ参入を目指すために20数人の選手をプロ契約していましたし、当時のJFLのクラブとしてはかなりの規模の額です。

 

 

資金と選手はどうにか集まりましたが、それ以外はもう何もない0からのスタート。今までフリューゲルスが使っていた練習場もクラブハウスも使うことはできないので、企業や市が持っているグラウンドを借りて、「今日はここ、明日はここ」と転々としながら練習をしていましたね。

 

 

シャワーがなかったり、更衣室がなかったり・・・・・・十分には設備が揃っていない施設も多かったですし、移動の負荷がかかりながらも、みんな文句も言わず、必死に練習に取り組んでくれていました。

 

 

厳しい環境でしたが、JFL初年度から優勝をすることができて、次の年には20勝2分で無敗優勝を成し遂げることができました。当時の所属選手たちは、本当によく頑張ってくれて、本当に感謝しています。

 

 

 

 

 

 

波乱のJリーグ参入初年度

 

ただ、念願のJリーグ参入を達成したものの、この頃からピッチ内外で少しずつ不協和音が生まれてしまいました。

 

 

最初の1、2年は、クラブもファン・サポーターも選手もみんな熱い気持ちを持っているし、Jリーグ参入という大きな目標に向けて一致団結することができていました。

 

 

ところが、だんだんとその熱が冷めてくると、色々なところからネガティブな声が聞こえてきて・・・・・・。

 

 

2001年には、とうとうファン・サポーターから当時のフロントへの辞任要請が起こってしまい、僕が代表取締役社長を務めることになりました。自分がやるしかないと、腹を括って。それからは、とにかく資金集めに奔走する日々が続きましたね。

 

 

上位を目指すには、もっとお金をかけていい選手を獲得したり、今いる選手を手放さずに済むようにしなくちゃいけない。でも、十分なお金はない。どうしたものか・・・・・・と毎日頭を抱えていました。

 

 

 

 

チームを盛り立てた、ピッチ内外での大型補強

 

そんな苦しい状況を脱する転機となったのが、2005年のONODERA GROUP(株式会社LEOC)の経営参画です。

 

もちろん、今でもクラブメンバーのみなさまのご支援ありきのクラブですし、市民クラブという根幹は変わっていません。それでも、クラブ経営の“理想”と“現実”のギャップはすごく僕自身感じていましたし、今後の横浜FCの発展を考えても、ONODERA GROUPからの打診はとても魅力的なものでした。

 

何よりもこのままの状態が続けば、このクラブが消滅するかもしれない。それだけは絶対に避けなければいけない。クラブが健全に存続できることを優先して、経営権を持っていただくことをお願いしました。

 

 

そして、その年のもう一つ大きな出来事としては、カズ(三浦知良)の加入ですね。

 

2003年にリティが監督として戻ってきて、元日本代表の城(彰二)が来てくれた時もかなり盛り上がりましたけど、知名度はもちろんのことカズの“プロ”としての姿勢は他の選手のいい刺激になっていたと思います。

 

 

あとは、このシーズンの途中にヤマ(山口素弘)の加入が決まった時も、ファン・サポーターはすごく喜んでくれました。フリューゲルスでキャプテンとして長年プレーしてきた選手だし、みんな戻ってきてくれるのを待っていました。

 

 

僕自身は、横浜フリューゲルスと横浜FCは全く別のチームだと思っています。それはサポーターもわかってはいつつも、やっぱり名残はどこかに残っている。選手自身も「ただいま」という気持ちになっていたんじゃないかなと思います。

 

 

ベテランも増え、ようやく資金面と選手層に厚みが出たことで、この年からようやく安定した1年を過ごすことができました。

 

 

 

開幕戦での電撃解任

翌2006シーズンも、思い返せばいろいろあった年でした。結果としてはJ1昇格という素晴らしい結果を得ることができましたが、激動の一年でしたね。

 

今振り返ってもとんでもないことをしたなと思うのは、開幕戦が終わった後に監督交代を決めたことです。

 

「もう少し見てからにすれば良いのでは」と周りからは言われましたが、苦渋の決断でした。

 

開幕戦にも関わらず選手たちが全然“踊って”いないんですよ。覇気のなさや表情、動きのキレのなさを見て、もうこのままじゃダメだと。足達(勇輔氏)は就任2年目でしたが、いわゆる“マンネリ化”している状態で、前のシーズンと何も変わっていないし、むしろ悪くなってしまっていて。試合後に解任を伝えさせてもらいました。

 

後任については、自分の直感を信じて、コーチだった高木(琢也氏)に託そうと。当時は監督経験もなかったですが、これまで積み上げたものを生かしつつ、自分の考えを混ぜて、良いチームを作っていってくれるんじゃないかという期待感がありました。

 

誰かに聞かれちゃまずいと思って横浜のカラオケ店でその話をしたんですが、まさか自分に話が来るとは思っていなかったみたいで「即答はできないです」と。でも「暫定監督でいいから数試合やってほしい」と頼みこみました。

 

そうしたら、まさかの15試合負けなし。さすがにびっくりですよね。

 

 

 

 

課題は「勝負所での弱さ」

 

2007シーズンに念願のJ1昇格をして、すぐに降格をしてしまって。そこから13年、長いJ2時代に突入し、苦しい時期が続きました。

 

 

2006年に会長になって以降は、現場から少し離れた視点でこのチームを見守ることが今の仕事になっています。その立場で少し物申すというか、ちょっと耳の痛い話をさせてもらうとすると、昔からこのチームは「勝負所に弱い」な、と。

 

 

2019シーズンまでの間で2度のプレーオフに出場していますが、いずれもあと一歩のところで負けてしまい、昇格を逃してきました。

 

 

僕が思うに、例えば試合での起用法が不服だったり、自分の出場機会が得られないことに対してのストレスや不満を、誰かのせいにしたり自分に矢印を向けずに逃げてしまうことが大きく関係しているのかなと。

 

 

そういった他責思考は、どうしてもプレッシャーのかかる試合で出てきて、踏ん張れずに逃げたくなってしまう。J1昇格を逃し続けた2007シーズンから2018シーズンまでは、それが顕著にあらわれてしまっていたように思います。

 

 

あとは先ほどの話にも通じますが、この13年間は“マンネリ化”という現象にもすごく苦しめられました。

 

 

J2ではそこそこの成績を維持できても、その先には進めない。そこから脱することができず、「またかよ」という気持ちになってくると、その次もいい結果を残すことは難しくなって、いつしか「仕方ない」という気持ちに変わってきてしまう。そこには何か、大きな変化が必要になってきます。

 

 

13年ぶりに昇格を決めた2019シーズンも、2006シーズンと同じく監督を交代したことで、一気に風向きが変わって上まで上り詰めることができました。

 

 

だからと言って、監督を1年ごとにコロコロ変えてしまうとチームとしての積み上げが全くなくなってしまいます。継続と変化のバランスは本当に難しいものだなと感じています。

 

 

 

25年で広がった新しい取り組み

 

2001年から設立したアカデミーもかなり活動が活性化してきて、育成の実績も評価されるようになってきました。

 

2011年に小野瀬康介が2種登録を経てトップチームに昇格した頃から、継続してユースからトップチーム昇格選手が輩出されています。齋藤功佑のような長くチームに在籍してくれる選手、斉藤光毅のように世界に羽ばたく選手もでてきました。

 

 

かつて横浜FCアカデミーは、あくまで近隣の横浜F・マリノスや川崎フロンターレの“滑り止め”で、進路の選択肢の第1希望に選ばれることが少ないチームでしたが、質の高い指導が評判になって、いい選手が集まってくるようになりました。来シーズンもすでにトップチームに昇格が決まっている選手がいますし、とてもいい流れだと思います。

 

 

加えて、2013年には横須賀シーガルズとの業務提携を行い、ニッパツ横浜FCシーガルズとして女子チームが誕生しました。横浜の企業で働きながらサッカーを続ける彼女たちの存在は、横浜の地域社会とのつながりを強化するという意味でも、大きな意味を持っていますし、横浜FCの“ファミリー”を広げることにも繋がっています。

 

 

さらに、昨シーズンからはポルトガル2部のUDオリヴェイレンセがONODERA GROUPの傘下に加わり、カズや、横浜FCユース出身の永田滉太朗選手が移籍するなど、新たな取り組みを始めています。

 

 

 

“エレベータークラブ”からの脱却へ

 

この25年間を振り返ると、本当にあっという間でした。

 

創設当初はとにかく必死で、Jリーグ参入まで駆け抜けました。

 

そこからJ2で苦しい時期を長く過ごして、ここ数年はコンスタントにJ1に上がれるようになってきました。

 

 

横浜FCは、J1昇格と降格を繰り返す“エレベータークラブ”と呼ばれています。J1で戦い続けるために、優勝争いをするために、何をすべきか。それを最優先に考えていかなければいけません。

 

 

クラブとして、ピッチ外のことに取り組んだり、収入面の確保のために、多角的なビジネスをするのは決して悪いことではありません。ただ、トップチームが結果を残さなければ、せっかく素晴らしい取り組みをしていても、うまく回っていきません。

 

 

横浜FCはまだまだ大きくなれるはずです。そのためにはフロント、選手、ファン・サポーター、パートナー企業など横浜FCに関わる全ての人々がより強固に結びつき、支え合っていくことが重要です。

 

 

50年、100年、もっと先まで──。

 

 

横浜FCがずっと続いていくように、もっともっと愛されるように、僕も何ができるのかを考えながら、ある意味で“ご意見番”のような形で貢献していけたらと思っています。

 

 

 

 

PROFILE

奥寺 康彦(おくでら やすひこ)

秋田県鹿角市出身。1952年3月12日生まれ。小学4年生で横浜に移り住み、中学生からサッカーを始め相模工業大学附属高等学校に進学。卒業後、日本サッカーリーグの古河電工サッカー部に加入し、8年間主力としてプレーした。1977年に海外挑戦を決断し古河を退団。ドイツに渡り、日本人初のブンデスリーガーに。ケルン、ヘルタ、ブレーメンの3クラブで通算234試合・26得点という結果を残した。1986年に古河に復帰、1988年に現役を引退した。Jリーグ開幕後はジェフユナイテッド市原のゼネラルマネージャーを務める。1999年、横浜フリエスポーツクラブのゼネラルマネージャーに就任し、横浜FCの創成期を支える。代表取締役社長、会長を経て現在はクラブのシニアアドバイザーを担う。

 

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