横浜FC

どんな時も自分には、父の面影が重ねられていた。

 

Jリーグで約300試合に出場した、いぶし銀のボランチ・山根巌。

 

偉大な父は一つの目標であり、超えたい存在でもある。

 

「『知る人ぞ知る山根巌』だったので、『みんなが知る山根永遠』にならないと」

 

7年間をかけて、4つのクラブを経由して、J1のピッチに辿り着いた。

 

だが、山根永遠の物語はまだまだ始まったばかりだ。

 

 

 

 

偉大なる父を超えていけ

山根永遠 FW 30

取材・文=北健一郎、青木ひかる

友人と交わした、小さな約束

 

1999年2月5日、山根永遠は生まれた。

父・山根巌が当時J2の大分トリニータでプレーしていたJリーガー。

しかし、本人がサッカーを意識し始めるのは、少し先のことだった。

 

 

「サッカーに全く興味がなかったんです。父が選手というのも正直実感がなかったし、虫捕りばっかりして遊んでました」

 

 

転機が訪れたのは、小学3年生の春。

父の移籍に伴い柏に引っ越し、出会った友人の影響を受けたことが、山根とサッカーの初めての接点だった。

 

「最初は友達と遊びたくてやり始めただけでした。一回(地元の)広島に帰ることになって初めて小学校のチームに入って、小5でまた柏に戻ってきた時にカナリーニョFCに入って、本格的にプレーするようになりました」

 

 

サッカーとの距離感を一気に縮め、競技に魅了された山根は、3つ離れた次男・成留(なる)、4つ離れた三男・留偉(るい)を連れ出しては、近くの公園で昼から夕方までボールを蹴り続けた。

 

 

「3兄弟で公園に行って、大喧嘩して母親に怒られるまでが毎日のルーティンでした。1時間くらいは楽しく出来るんですけど、必ず揉めて。弟たちは拗ねて先に帰っちゃうから、僕だけ1人で残って最後に家に帰るっていう流れの繰り返しでしたね」

 

 

小学5年生の冬、父がツエーゲン金沢に移籍することが決まり、山根兄弟と母は広島に帰ることになった。

 

この時、友人と交わした約束が、山根の人生を大きく変える。

 

 

「いつかまた、サッカーをやろうなって。シンプルな言葉ですけど、引っ越しても頑張ろうって思えたんですよね。広島で1番強いチームはどこだろうって考えた時に、やっぱりサンフレッチェ広島が一番早く頭に浮かんだんですよ」

 

 

元所属選手の息子というコネクションはありながらも、Jクラブの育成組織に加入することは容易なことではない。

 

 

ただ、山根は2週間の練習参加の末に見事合格を勝ち取り、「プロサッカー選手」を目指す激しい競争に足を踏み入れた。

 

 

 

ユース年代での栄光と悩み

 

サンフレッチェ広島ユースのエースとして残した活躍は、山根のキャリアを辿るなかで度々フォーカスされる。

 

しかし、華々しい経歴の裏側で、中高時代の山根は人知れない事情を抱えていた。

 

 

「実は、小6の夏に両親は離婚しているんです。母はシングルマザーとして昼も夜も働いて、僕たち兄弟3人を育ててくれました。中学生になってから、出来る時は自分も家事を手伝うようにしてましたけど、母にとっては自分がサッカーに行っている間が唯一の睡眠時間だったと思います」

 

 

幼かった弟たちを支えなければならないと、長男としての責任感が生まれた。陽気に振る舞っていたが、自覚のないまま心身のバランスが崩れ、高熱が1週間続くような時期もあったという。

 

 

「もうサッカー辞めちゃいたいなって時もあって、1週間くらい無断欠席して友達の家に泊まりに行ったこともありました。それでも、ユースのスタッフは見捨てないでいてくれました」

 

 

山根は、少し口元を緩めながら話を続ける。

 

 

「家を空ける時間が多いし、母親も僕がヤンキーになるんじゃないかってすごく心配してたんですよ。そしたら突然『犬を飼いました』って。母親がつけた犬の名前が ”山根オフザピッチ”で、通称ピーちゃん。なにそれって(笑)。おかげさまで、グレることなくここまで来れました」

 

 

山根自身も、20歳という若さで結婚し、今や立派な1児の父となった。SNSでも見せる子煩悩な一面は、母親の姿を見て、子どもを育てる大変さを理解してきた表れなのかもしれない。

 

 

ピッチ外での苦悩を乗り越え、パワフルなプレーとゴールへの嗅覚を研ぎ澄ました山根は、高校3年生ではJユースカップと高円宮杯U-18プレミアリーグWESTで得点王に輝き、育成年代に名を轟かせた。

 

 

点取り屋では、生きていけない

1998年世代の注目株として期待されていた山根だったが、卒業を前にトップ昇格の通達は届くことはなかった。

 

同期で昇格したのは、ディフェンダーのイヨハ理ヘンリーのみ。厳しい世界だと理解していたものの、悔しさが込み上げた。

 

 

「もう面談のあと、ヘンリーに速攻で電話しました。『絶対に追いついてやるからな』って」

 

 

遠回りしてでもJリーグの舞台に立つため、進学先を探していた山根だが、自分と同じような志をもっていたはずの同期や先輩の言葉で、大きな危機感を覚えた。

 

 

「みんな言うんですよ。『大学はいいぞ。朝練して授業でて、バイトして。稼いだお金で遊べる』って。これ、俺終わるなって思いました。飲みにでも誘われたら行っちゃうだろうし」

 

 

どうにか自分を必要としてくれるクラブは見つからないか――――。

 

 

当時の広島ユース・沢田謙太郎監督に直談判し、縁を繋いでもらったのが、セレッソ大阪の大熊裕司監督だった。

 

 

「練習参加をさせてもらったら、拾ってもらえることになりました。もう、やってやるぞって気持ちでしたね」

 

 

広島でのデビューこそ叶わなかったが、“高卒ストライカー”としてプロ入りを勝ち取った。強気な姿勢でセレッソの門戸を叩いた山根だったが、早々にその自信は打ち砕かれた。

 

 

「前線に(柿谷)曜一朗くん、リカルド・サントス、(杉本)健勇くん……。大熊さんからも、『お前は曜一朗じゃない。何をしなきゃいけないかわかるよな』って。もうフォワードじゃ生きていけない。走るしかないと、180度サッカー観が変わりました」

 

 

セレッソ大阪U-23の主力として、左サイドで出番を増やした山根は、サボりがちだった守備にも目を向けた。

 

 

活かされる側から、活かす側へ。

 

華やかなプレーだけではなく泥臭さを身につけ、自分の役割を全うした。

 

 

5年目で訪れたキャリアの分岐点

 

24歳にして5クラブを渡り歩き、様々な指導者と出会ってきた山根だが、なかでも“恩師”として慕っている存在が、ザスパクサツ群馬で指揮を執った大槻毅監督だ。

 

 

「セレッソから期限付移籍という形で、金沢と水戸ホーリーホックに行きました。金沢では移籍早々にゴールを決めて、選手とファン・サポーターから信頼を勝ち取ることができました。だけど、水戸では出場時間も少なくて、思うような成績を残すことができませんでした。焦りもありましたし、苦しかったです」

 

 

2021シーズン終了後、追い討ちをかけるように山根に告げられたのは、水戸とC大阪からの“ダブル契約満了”だった。

 

 

「今振り返ると、心のどこかで『自分のバックにはセレッソがいる』って思ってしまっていたのかなって。後ろ盾もなくなって、行き場の無い僕に『一緒にサッカーをしよう』と言ってくれたのが大槻監督でした」

 

 

この群馬での1年はキャリアの分岐点になる──。

 

 

覚悟をもって挑んだ山根だが、すぐに安心感に浸ってしまう危うさもあった。

 

そんな時、大槻監督からは「こんなんで満足するな」とすかさずゲキが飛んだ。

 

愛情深くも厳しい指導を受け、山根はJ2屈指のアタッカーとして存在感を示した。

 

 

 

そして、ザスパクサツ群馬に加入して半年。

山根のもとに、J1昇格争いの本命馬である横浜FCからオファーが届いた。

 

 

ステップアップの大チャンス。

ただ、水戸の時のようにまた試合に出られなくなったら……。

 

 

一抹の不安をもちながらも、山根は横浜FCへの移籍を決めた。

 

 

 

「大槻さんも『頑張りが評価された証拠だ』と背中を押してくれました。群馬に話を繋いでくれた強化部の松本大樹さん含め、感謝してもしきれません」

 

自らの伸びしろを信じて、育ててくれた監督に恩返しができるように。

 

2022年8月16日。

奇しくも群馬を相手に、山根は水色のユニフォームに袖を通し、横浜FCの一員としてニッパツ三ツ沢球技場のピッチに立った。

 

 

 

 

J1から、その先へ

 

加入当初、連敗していた横浜FCは、群馬戦で勝利を収めた。

チームは勢いを盛り返し、1年でJ1に復帰した。

 

山根にとって、初めてのJ1リーグ。

 

開幕直後こそベンチが続いたが、夏以降は攻守での献身性を武器に、徐々に出場機会を増やしている。

 

 

「プロ7年目でやっとJ1のピッチに立つことができました。今まで感じたことのないスピードや個の強さに戸惑いもありましたが、今度は自分が『怖い』と思わせられる選手になれるように、強みをしっかり出していきたい」

 

 

 

 

90分間全力でサイドを上下動し、試合後は自力で歩けないほど疲弊する時もある。

 

Jリーグトップレベルのアタッカーとのマッチアップを重ねる山根は、開幕時とは比べものにならないほど、たくましさを増している。

 

 

「サイドからピッチの状況を広く見て、攻守のバランスを整えることが自分の役割だと思っています。流れが悪くても、前向きな声かけを続けたいし、みんなができるだけのびのびとプレーできることが理想です。まだまだですけど、そこは意識しながら、チームを良い方向に導いていきたい」

 

 

J1残留、そしてその先へ。

 

 

それはチームの目標でもあり、個人の目標でもある。

 

 

「やっぱり選手として、海外移籍や日本代表という場所は、目指していきたいです。まだ24歳でこれからだし、やらないといけないことを一つひとつクリアしていきます。息子に自分が選手だって認識してもらえるように、活躍し続けることが最低限の目標ですね」

 

 

 

“知る人ぞ知る”父を超え、“みんなが知る選手”になれるように。

 

 

山根永遠は、泥臭く、粘り強く、今日も成長し続ける。

 

 

PROFILE

山根永遠(やまね とわ)/FW

広島県出身。1999年2月5日生まれ。167cm、67kg。小学4年生で千葉県のカナリーニョFCで本格的にサッカーを始め、サンフレッチェ広島ジュニアに加入。ジュニアユース、ユースと昇格し、高校3年生で得点王の個人タイトルを2つ獲得するなど、エースとして活躍した。卒業後、セレッソ大阪に加入しU-23の主力として3シーズンで71試合に出場。ツエーゲン金沢、水戸ホーリーホックへの期限付移籍を経て、2022シーズンにザスパクサツ群馬に完全移籍。同年夏に、横浜FCに加入した。サイドを主戦場に、相手のアタッカーからボールを刈り取り、持ち前の突破力を生かしながら、攻守のスイッチャーとして奔走する。プロフィールはこちら