取材・文=北健一郎、渡邉知晃
武田英二郎が何度も口にしたのは「運が良かった」という言葉だった。
しかし、運だけではプロになることも、ここまで長く現役生活を続けることはできない。
3年連続で3チームを渡り歩いた期限付き移籍先では、毎年結果を残さなければサッカー選手としての生活が終わってしまうと、自分を追い込んで結果を残してきた。
試合に出られなかった湘南ベルマーレ時代では、常にどんな状況でも全力を出し尽くし、チームのために走れるという武器を身につけた。
自分に厳しく、常にチャレンジャー精神を忘れずにプレーして来て今がある。
そんな武田の目標はただ一つ。
「横浜FCの一員として再びJ1のピッチに立つ」ことだ。
武田英二郎は、異色のキャリアの持ち主だ。
父親の仕事の関係で、6歳から11歳までをイギリスで過ごした。
イギリスでサッカーを始めたのだが、サッカー漬けの生活というわけではなかった。
「イギリスは学校で学期ごとにやるスポーツが決まっていて、サッカー、ラグビー、クリケットの3つをやっていました。学校の外では水泳とテニスをやっていたので、サッカーだけ特別という意識はなかったです」
写真:本人提供
イギリスと日本のサッカー文化には、大きな違いがあった。
「日本帰ってきて、みんなリフティングとか基礎技術がめちゃくちゃ上手で、僕はそれが本当にできなくて……。イギリスは蹴って走って戦ってみたいな感じだったのが、日本はボールを大事にするとか、基礎技術を大事にする。だから日本に帰ってきたときは衝撃を受けましたね」
5年生の時に日本に帰国。
6年生になる直前に、親から「友達作りのため」と言われて地元のサッカーチームであるFC中原に入ることになった。
すると、そこから武田のサッカー人生が動き始める。
「本当に運が良くて、FC中原に入った翌週に川崎市選抜のセレクションがあり、チームから推薦してもらって参加し、合格することができました」
川崎市選抜の一員としても活動している中で、市の対抗戦での活躍を評価され、横浜F・マリノスジュニアユースのセレクションに誘われる。
セレクションの結果は合格。
中高6年間をマリノスのアカデミーでプレーすることになった。
「マリノスはポジショニングやポゼッションの仕方にこだわるチームだったので、めちゃくちゃ苦労しました。自分だけリズムもタイミングも合わない。俺のところでボールが止まるし、ボールを失うしというコンプレックスを、高3の最後まで持ったまま卒業しました」
それでもジュニアユースからユースに昇格することができ、試合には出場していたという。
「左利きでプレースタイルがちょっと人と違ったのが、運が良かったのかなと思います」
中高の6年間は、みんなに追いつくように必死に走り続けてきた。
そして、武田が高校卒業後に選んだ進路は大学への進学だった。
「サッカーが強いことと、将来プロになれなかった時のために勉強もしないといけないと思ったので、両方を考えた上で青山学院大学を選びました」
青山学院大学では、1年生の開幕戦から試合に出場することができた。
「4年生まで怪我もほぼなかったですし、累積警告での出場停止とか以外は全試合に出させてもらいました」
苦労しながらも、アカデミー時代必死に取り組んできたことが活きたのが大学時代だった。
「レベルが高い中でやってきたことで、大学に入って余裕が生まれて自信がついて、そこで伸びたかなと思います」
当時強豪校だった明治大学や、法政大学などに進学していたらアカデミー時代のように「コンプレックスから抜け出せずにいた」かもしれない。
青山学院大学を選択したこともまた、武田にとってターニングポイントだった。
「その時の青学は関東大学サッカーリーグの一部と二部を行き来していたようなチームで、そこで試合に出て自信を持てたことが自分のサッカー人生においてすごく大きかったと思いますし、運が良かったです」
大学での活躍が評価され、古巣の横浜F・マリノスからオファーが届く。
大学4年時には特別指定選手として湘南ベルマーレでプレーしていたが、やはり中高6年間を過ごしたマリノスへの想いは強かった。
「本当にうれしかったですね」
思い入れのあるチームへの加入を果たした武田だったが、1年目から苦しい時間を過ごすことになる。
「自分が出てもチームの足を引っ張るだろうなという思いのほうが強くなってしまい、試合に出るのが怖いというか、責任を取れないという考え方になってしまいました」
練習で通用していないわけではなかった。
ただ、マリノスの錚々たるメンバーの中で、「試合に出してくれ」というほどの自信と欲が出て来なかったのだ。
「テレビで観ていて、ユースのときに憧れていた人ばかりだったので、自分が選手としてその人たちとポジションを競ってやるというよりは、憧れの気持ちが強すぎました」
大学からプロの世界に入り、「まだアマチュアなところが自分の中にあった」武田だったが、マリノスでの経験はその後に活きている。
「最初に高いレベルや雰囲気を経験できたことは全く後悔してないし、すごくよかったなと思います」
このままではいけない、環境を変えることが今の自分には必要だと感じ、プロ2年目はJ2のジェフユナイテッド市原・千葉に期限付き移籍をする。
「自分がJ2に行って試合出られるなんて全く思ってなかったし、そこで出られなかったらもう辞めるしかないという思いでチャレンジしました」
千葉から始まり、ガイナーレ鳥取、アビスパ福岡の3チームを3年間で渡り歩き、試合出場の経験を積むことができた。
「今、過去として振り返ったら試合に出られたなという感じなんですけど、当時は本当に必死で、毎週、試合に出ないと終わるなと思いながら過ごしていたのは覚えています」
期限付き移籍を繰り返し、いつかはマリノスに戻ってきて活躍したいと思っていたが、3年目を終えた後も戦力としての評価を得ることができなかった。
武田は、特別指定としてもプレーし、オファーをもらっていた湘南ベルマーレへの移籍を決断する。
「曺(貴裁)さんとやってみたかったというのはありますね。小6ぐらいから選抜とかで曺さんには見てもらっていたので」
しかし、湘南では結果的に3年間でわずか4試合にしか試合に出場できなかった。
それでも武田にとっては大きな3年間だったという。
「全力を出し切る」、「チームのために走る」ことを大事にする曺監督の元でプレーし、身についたことが、その先で自分の武器として役立った。
「マリノスユースの時と一緒で、湘南で3年間真剣にやったことで、いつの間にか自分の武器として身に付いていて、それが次のステップで評価されたという形ですね」
2017年には試練が訪れる。
前年から続いていた心臓の不調、運動誘発性不整脈の治療のため心臓の手術を受けることになった。
「湘南との契約が終わる年だったので、どうしようかなと考えましたけど、まずは心臓を治すことが一番大事だよねとなり、手術をしました」
手術は無事に成功し、術後3日目にはジョギングを開始できるようになった。
しかし、手術による体の影響よりも「新しいチームが決まるのか」という不安に駆られていた。
新たな所属先を探していた武田は、代理人経由で横浜FCの練習試合に参加した。
そこでのプレーが当時の監督だったタヴァレスに高く評価された。正式なオファーが届いたときは「驚いた」という。
「タヴァレスもそうだし、強化部の方も、心臓の手術をした直後であり、3年間ほとんど試合に出ていない30歳の選手を補強としてとってくれたことには本当に感謝しています」
加入当初は「1、2年で契約満了になるかもしれない」と覚悟もしていた。
「湘南で試合に出てなかったので自信もそんなになかったですし、年齢的に勝手に衰えていくものだと自分でも思っていたところはありました」
湘南時代には3年間で4試合にしか出られなかった武田。
しかし、横浜FCに移籍した初年度は32試合に出場する。
その後もコンスタントに試合に絡み続け、気づけば5年間の在籍になり、自身のプロキャリアの中で一番長く在籍したチームになった。
「正直な話、どこかに“マリノスの選手”という感覚がずっとあったのですが、5年間横浜FCにいさせてもらって、今は“横浜FCの選手”だと心から思います」
武田は30歳を過ぎてから、出場時間を減らすどころか、むしろ伸ばしてきた。
選手の入れ替わりも激しく、監督も代わるプロの世界で同じチームに残り続ける、試合に出続けることは簡単なことではない。
「本当に運だと思いますよ」
本人はそう謙遜するが、決して運だけではない。
置かれた環境の中で努力し続け、吸収し、どんな時も全力を出し切れる。
それは左足のキックや球際の強さと並ぶ武田のストロングポイントだ。
今季の横浜FCは選手層が厚く、毎試合メンバー争いは熾烈だ。
「試合に出られないと素直に悔しいって思うし、常に危機感を持たせてもらっている感じですね」
それでも、自分が試合に出られなかった時に「素直に応援できる」と、いい関係性ができている。
「J1に上がりたいという想いは相当強いので、自分が出られなくて悔しくても試合には勝ってほしいし、みんなで切磋琢磨しながらうまくやれていると思います」
昨季は主力として試合に出場しながらも、チームをJ2に降格させてしまったことに責任を感じている。
「残留することが不可能ではなかったなと本当に思うから、すごく悔しくて・・・・・・」
昨季の経験があるからこそ、次にJ1に上がった時は「違う結果を残せる」という想いもある。
ただ、J1昇格に近道はない。
「1試合で最大でも勝点3しかとれないし、それの積み重ねだと思うので、そこに自分が絡んでいって、勝利に貢献するということしか考えていません」
プロ1年目、「試合に出たくない」と思っていたマリノス時代に、今の自分を想像することはできなかっただろう。
「若い時と気持ち的にそんなに変わってないですし、まだまだやりたいし、できるとも思っている。この気持ちがある限りは選手を続けていきたい」
2022/4/23(土) 明治安田生命J2リーグ 第11節 (対 栃木SC@カンセキ)でJ2リーグ通算150試合出場を達成した
7月11日に34歳の誕生日を迎える。
武田英二郎は教えてくれる。
年齢は単なる数字でしかないことを。
異色のキャリアはまだまだ終わらない。
神奈川県出身。1988年7月11日生まれ。(33歳)
身長173cm。体重71kg。Jリーグ通算190試合出場(J1:34 J2:156 J3:0)※2022.6.14時点
ジュニアユース、ユースを横浜F・マリノスで過ごし、青山学院大学へ進学。4年次にはサッカー部の主将を務めた。またこの年に特別指定選手として湘南ベルマーレでプレー。2011年からは、横浜F・マリノスに加入。その後、ジェフユナイテッド市原・千葉、アビスパ福岡、ガイナーレ鳥取、湘南ベルマーレなどでプレーし、2018シーズンより横浜FCへ加入。左足の正確なキックを武器に攻守においてアグレッシブな姿勢でチームを牽引する。語学も堪能でピッチ内外においてチーム内の橋渡し的な存在としても活躍。プロフィールページはこちら。