取材・文=北健一郎、青木ひかる
アカデミー出身、ユースからトップ昇格を果たした高卒ルーキー。
横浜FCのファン・サポーターから“うちの子”と愛されるのが、杉田隼だ。
得意なプレーは、相手の動きを予測し、危険を事前に刈り取ること。
しかし、プロの壁は高かった。
高卒1年目のリーグ戦出場数は0。
19歳は2年目の目標を“ミニマム”に設定している。
「まずはリーグ戦に出ること。0を1にする。そこから積み上げていきたい」
一歩一歩進んだその先に、杉田の、横浜FCの未来が広がっていく。
杉田が初めてサッカーと出会ったのは4歳の頃。
通っている幼稚園でバディーSCのサッカー教室が開かれており、二つ年上の兄とともに通い始めた。
「兄は幼稚園を卒園したタイミングで辞めてしまったんですけど、僕はボール蹴ることがとにかく楽しくて続けていました」
そして、セレクションに合格しバディーSCの選抜クラスに加入した。
「みんながボールに集まって“団子”になっているところを、一歩引いてみているような選手でしたね。ボールが輪から出たらしれっと奪いに行く」
当時からクレバーな選手だったことがうかがえるが、バディーSCに集まる選手たちのレベルは高かった。
ボール扱いも身体能力も、自分が一番だと思えることはなかったそうだ。
「低学年の頃は、いわゆる“上手い子チーム”に入ることはできなくて。自分がプロになるというよりかは、プロになる子はこういう子だろうなと周りをみていました」
高学年になるにつれ、守備のポジショニングやビルドアップの部分が評価されて、試合にも絡むように。
最高学年では、マリノスカップや冬の県大会で優勝を経験し、自信をつけていく。
卒団後の杉田には複数の選択肢があった。その中から横浜FCを選んだのはなぜだったのか。
「横浜FCのスカウトの方が、僕のプレーを練習場に見に来てくれていたんです。親にも相談した結果、横浜FCに入りたいと言う気持ちが強くなり、加入を決めました」
中学1年生の春から横浜FCの一員としてのキャリアをスタートさせた。
サッカー少年を最も近くで支えたのは他の誰でもない両親だった。
父親はサッカー経験者ではなかったが、杉田がプロになった今でも頼りにする“アドバイザー”だ。
観戦に訪れればビデオカメラで記録し、家に帰ってから一緒に見返して、プレーを振り返った。
杉田自身も自分の中で課題を整理することができ、プレーの質を上げることができたという。
「反抗期とかは特になかったですね。たまに言い返す時もありましたけど、親が言っていることのほうが正しいなと思えていたので」。
そんな中、杉田にとってこれまでのサッカー人生のなかで、一番の苦境が訪れる。
「中学2年生のときに、身長が14cm伸びて、成長痛がひどくなってしまったんです。第五中足骨の骨も両足出てしまうようになって、半年間サッカーをすることができませんでした。正直、ユースには上がれないんじゃないかなって。もう、高校を探そうと思っていました」
苦しむ杉田に対し、両親は「こういう時こそチャンスだよ!」と声をかけたという。
「サッカーはできないけど、サッカー以外のことはできる。例えば自分の体のことを知ったり、体感や筋トレはやっている子たちよりも、たくさんできるよねと」
サッカーができない時期も、できることに前向きに取り組んだ。
そんな杉田の人間性やポテンシャルが評価され、無事にユースへの昇格を勝ち取った。
杉田がユースに加入した2019年は、横浜FCユースが県リーグからプリンスリーグにカテゴリーを上げた1年目の年だった。
3年生には横浜FCを経て、ヨーロッパに羽ばたいた斉藤光毅がいた。
横浜FCユースは1年でさらに上のプレミアリーグに昇格し、その強さを発揮していく。
杉田自身も高校2年生でようやく成長痛から開放され、新型コロナウイルスの影響を受けながらも、シーズンを通して試合に出場することができた。
「先輩方がカテゴリーを上げる“置き土産”を残してくれたことで、自分たちもより上のレベルでプレーをすることができました。とくに1個上の先輩とは、みんな仲が良くて、練習も強度も意識も高く、付いていきたいと思える存在だった。日々の積み重ねのなかで良い循環ができて、チームとしての強さに繋がったと思っています」
そして、杉田にとってもう一つ大きな存在だったのが、同期の存在だ。
「僕たちの代は、山崎(太新)と(増田)健昇と僕が、3年生のときに2種でトップに登録されました。山崎はポジションは違いますが、お互いの姿勢を見て負けてられないなと話していました。健昇は家も近く、小学校からお互いのことを知っていて、中学で同じチームになって、同じポジションでプレーしてきました。コロナの自粛期間も、一緒によくボールを蹴っていましたね」
とくに中学時代からともにプレーした増田は、ユースでも1年生の時からプリンスリーグで出場していた。
そんな増田の姿を追いかけ、そして追い越すつもりで杉田もプレーを続けてきた。
「健昇とはずっと良きライバルとして関係を築いていました」。
自分の強みである「相手のプレーを読み、次のプレーを予測する」力をさらに伸ばし、欠点を改善することにも努力した。
そして3年生になってからは、杉田も主力選手としてリーグ戦に12試合出場し、最終ラインの選手ながら1得点を残す活躍を見せる。
2022年、杉田はついにトップ昇格を果たした。
大学で4年間鍛えてからプロに挑戦するという選択肢もあった。
だが、杉田は高卒でのプロ入りを決断した。
「チャンスは誰にでも平等にありますが、実際にプロ選手になれる人は一握りしかいない。そのなかで、声をかけてくれた横浜FCに貢献したいという気持ちが強くあったので、進学ではなくトップに昇格することを決めました」
これまで、アカデミー出身の選手が中心となって横浜FCというチームを引っ張ってきたことは、杉田も十二分に分かっていた。
先輩たちのバトンを受け継ぎ、同じように後輩に繋いでいけるように――。
しかし、杉田の前には想像以上に高い“プロの壁”が立ちはだかっていた。
「もっと爪痕を残せればと思っていたんですが……。結果としては、天皇杯2試合しか出場することができませんでした」
それでも、杉田はこのルーキーイヤーをポジティブにとらえている。
「天皇杯では、ホームでプロデビューできたことは自分にとってすごく大きかったです」
今までも、最初から順調な道を歩んできたわけではなく、周りの優れた選手たちを“一歩引いて見て”、追いつくためにはどうしたらいいかを考えてきた。
試合に出られない時間こそ、チャンス――。
悔しい思いを糧にできるかは自分次第だ。
若い選手が出場機会を求めて期限付き移籍をすることも多いが、杉田は強い気持ちを胸に横浜FCで、J1の舞台に挑む。
1月から始まった宮崎キャンプ。
多くの選手が入れ替わる中で、ポジションをつかむためには、どんな特徴をアピールすべきか。
「とにかくフレッシュな部分や運動量を発揮していくこと。先輩のプレーや経験をプラスにしていきたいです」
このオフには横浜FCアカデミー出身選手として初のトップチーム昇格を果たし、7年間プレーした齋藤功佑が東京ヴェルディに移籍することが発表された。
だからこそ、ファン・サポーターの視線が、同じくアカデミー出身選手である自分に注がれていることも強く感じている。
「自分はあまり、プレッシャーに強いタイプではないです。気負いすぎると空回りしてしまう。誰かの期待に応えるというよりは、自分にできることでクラブに貢献する。そういう気持ちでやっていきます」
今シーズンの目標は、まずはリーグ戦に出場すること。そして、アカデミー出身の選手として、希望を届けられる存在になれるように。
若獅子は、一つ一つ、歩みを進める。
よく似ているといわれるそうで「ニャンちゅう」のポーズ
神奈川県出身。2004年1月9日生まれ。身長179cm、体重65kg。横浜FCジュニアユース、横浜FCユース出身。2021シーズンに二種登録を経て、2022シーズントップチームに昇格。2022シーズンは出場機会に恵まれなかったが、クレバーな守備を武器に今シーズンの飛躍に期待がかかる。プロフィールはこちら。