中村俊輔の長い現役キャリアにおいて、一番の試練となったのが30歳で迎えた2010年の南アフリカワールドカップである。
スペインのエスパニョールからワールドカップイヤーに、古巣の横浜F・マリノスに復帰。しかし日本代表の背番号10は左足首のケガをきっかけにコンディションが上がらず、本大会直前になってレギュラーから外れることになった。岡田武史監督のもと戦術も人選もガラリと変わる〝突貫工事〟のなかで葛藤を秘めながらもベテランとして躍進するチームを支えていく日々……。当時を思い起こすとどうしても口調は重くなった。

「苦しかったね。崖から落ちていくような感覚だったから。どんどん転がっていく感じで、もう一度崖をのぼり始めようとしたときにはワールドカップはもう終わっていた」
崖から転がっていく――。
その表現から失意の大きさをうかがい知ることができる。

苦しくて重い日々の始まりだった。
壮行試合となった韓国代表との強化試合で先発しながらも思うようなプレーができず、真っ先に交代を告げられた。レギュラーの座から外れることを覚悟した。
スイス・サースフェーでの事前キャンプで、そのとおりになる。阿部勇樹がアンカーに入るシステムに変わり、自分のポジションがなくなっていた。

「カウンターのスタイルに切り替えて、自分だけじゃなくキャプテンやGKもチェンジして岡田さんは勝負に出た。自分がそういうふうにさせてしまった。(強化試合の)イングランド戦で手応えをつかんだわけだし、日本の戦い方としてはこれでいいと思えた」

自分の居場所がなくなっていく現実。もう必要とされてないんじゃないかとネガティブな思いがこみ上げると、胸が締めつけられた。
やれることはただただコンディションを上げていくだけ。サースフェーでも、南アフリカに渡ってからも、許される限り居残りでボールを蹴り続けた。

「岡崎(慎司)、森本(貴幸)ら同じような立場の選手と自主練でシュートを打ったりして何とか自分の調子を上げて、途中から出たら試合を決めるようなプレーができるように、と。戦い方が変わったなかでも自分としては決定的なパスを出せるように、あとはハードワークしたいと考えていた。野心が消えないように、とそれぞれの火を集めて大きくしようとしていた感じはあった。もちろんチームの雰囲気を良くしていくこともみんな大事にしていた」

余計なことは考えずに、「自分がやるべきこと」だけに打ち込んだ。ボールを蹴れば蹴るほど、余計なことを忘れられた。

「あのときはちょっとオーバートレーニング気味にはなっていたかもしれない。やりすぎくらいじゃないとやっていられない。そんな気持ちもあったから」
鬼気迫る表情でトレーニングに打ち込む中村がそこにはいた。

ワールドカップに入るまでのチームは負け続きとあって下馬評は高くなかった。それでもグループリーグ初戦のカメルーン代表戦に1-0で勝利して自国開催以外のワールドカップで初めての白星を手にすると、そのムードは一変した。

「すごくうれしかった。だけどその100倍悔しかった」

出場機会がなく、サポート役に回った中村は日本が勝ったことを素直に喜びつつも、10番を背負う者がピッチで貢献できなかったという事実に打ちひしがれた。

ようやく中村にも出番が訪れる。
強豪オランダ代表との第2戦、0-1で迎えた後半19分だった。指揮官から「タメをつくってシンプルに攻撃を組み立ててくれ」との指示を受け、ピッチに飛び出していく。松井大輔に代わって右サイドに入り、ボランチに寄りながらボールを引き出そうとした。
スイス合宿の際に、ホテルを訪れた前監督のイビチャ・オシムから「誰かが君のところにサポートして寄っていくことで、君という存在が活きる」とアドバイスを受けていた。
だが思うような連係を図れず、後半36分には右サイドを駆け上がってきた長友佑都へのパスのタイミングが合わない。珍しく感情をあらわにして天を仰いで悔しがった。試合はそのまま0-1で終わった。中村は短くこう振り返った。

「あのオランダ戦、流れにうまく乗れなかったかなとは思う。もがいてみたんだけど、ここで崖からはい上がることはできなかった」

日本代表は1勝1敗とながらも、迎えたデンマーク代表との第3戦に勝利。2大会ぶりに決勝トーナメント進出を決める。そしてラウンド16、パラグアイ代表との一戦はスコアレスで120分を終え、PK戦の末に敗れた。日本列島が一喜一憂したこのドラマに、中村はピッチ上で関わることができなかった。

「居残りで練習をやらせてもらったし、トレーナーさんにもリハビリを付き合ってもらった。代表チームには感謝しかない。結局は自分の力不足だったし、南アフリカワールドカップは人間的に成長させられた場としか言いようがない」

持参したサッカーノートには〝後から試合に出ても結果を残す〟と自分に言い聞かせるようにつづっていた。その一方、大会後に帰国してからコンディションをどう上げ、どのように練習していくべきかを書き連ねた。崖をはい上がる、その決意を込めて――。

2度目のワールドカップを終え、日本代表の戦いに区切りをつけることを決断する。日本代表として国際Aマッチ98試合の出場を誇り、そのうちエースナンバーの10番をつけたのは実に80試合以上にも及んだ。サッカー人生の中心に、いつも日本代表を置いた。

「海外で7年半プレーしてきて、丸一日掛けて移動してふらふらになりながら試合をやったこともあった。代表でも所属チームでもいいプレーをしようと言い聞かせてきた。きつかったけど、凄くやり甲斐があった。自分のなかで一番上に置いていたのが日本代表。ワールドカップは2大会とも苦しんで終わってしまったけど、うまくいかなったところも含めて指導者として活かしていきたいと思う」

あのときの苦闘は何事にも代えがたい肥やしとなる。南アフリカから3年後の2013年シーズン、中村はJリーグ史上初となる2度目のリーグMVPに輝く。それは、崖を上りきった証となった――。

(第7回に続く)

 

(取材・記事=二宮寿朗)

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