クラブと日本代表の掛け持ちから〝解放〟された期間がある。
2006年のドイツワールドカップを終えて日本代表の新監督にイビチャ・オシムが就任すると欧州でプレーする選手はしばらく招集されず、中村俊輔はセルティックでのプレーに専念した。欧州CLグループリーグ、マンチェスター・ユナイテッドとの対戦において2戦連続で直接フリーキックを決めるなど好調を維持していくなか、始動したオシムジャパンのことは多少なりとも気にはなっていた。
「ヤット(遠藤保仁)に電話して、どんな練習をやっているとか、ビブスがどうだとか一応、教えてもらってはいた。オシムさんのことで知っているのは、元ユーゴスラビア代表監督で、ジェフを強くしたというくらい。記事やニュースも目にしていたから、〝考えて走る〟とか〝水を運ぶ〟とか、そういったフレーズも自然と頭には入っていた」
最初に国内組で基盤をつくったうえで欧州組を合流させていくというオシム流のマネジメント。中村は2007年3月の親善試合にようやく招集され、オシムジャパンに初合流したペルー戦で直接フリーキックから巻誠一郎、高原直泰のゴールをアシストしている。
何色もビブスを使って決まりごとを多く設定し、動きながらスピーディーかつ正確に判断させるトレーニングは刺激的でもあった。
「オシムさんが何を求めているのか、それを感じつつ、それ以上のものを見せたいっていう気にさせてもらった。やっぱり監督から求められるプレーを表現できないと、起用してもらえないだろうから。興味や関心を持ってトレーニングに臨んでいたし、自分だけじゃなく全体的にそのような雰囲気だったと思う。みんなオシムさんから学ぼうとしていたね。
求められているなと思ったのは、ボールが動いている間の、ボールがないところでのランニングの質。オシムさんに直接言われたわけではないけど、ボールがサイドに渡ったらすぐにオーバーラップを始めるとか、そこは強く意識してやっていた」
走る、動く、そのなかで自分の技術を発揮する。それはセルティックでも意識して取り組んでいたことでもあった。オシムが「ブラボー!」と手を叩けば、求められているプレーだと確認できた。新鮮な気持ちで日本代表として新たなスタートを切った。
ここからは再び掛け持ちが続くことになる。
セルティックでは2006~07年シーズンにおいてリーグ2連覇を達成し、リーグMVPを受賞する。その勢いのまま、タイ、マレーシア、ベトナム、インドネシアの東南アジア4カ国共催となるアジアカップに参加する日本代表に合流する。
高温多湿の環境下、ハードなトレーニングが連日繰り返された。約1カ月の合宿期間などそうそうなく、指揮官にとってもチームづくりを進めることができる絶好の機会でもあった。
大会2連覇中の日本はグループリーグ初戦でカタール代表と対戦。先発にピッチに立った中村は4-2-3-1の右サイドハーフを任される。守りを固める相手を崩し切れないなか後半16分に高原のゴールで先制。しかし終盤、絶好の位置で相手に直接FKを与え、ウルグアイからの帰化選手であるセバスティアン・キンタナに豪快に決められてしまう。後味の悪いドロー発進となってしまった。
強烈な記憶として残っているのが、試合後のミーティングだという。
「確か1時間くらいはあったかな。戦術がどうとか、ポジショニングがどうとか、そういうことじゃない。勝負どころで何をすべきか、人間の心理メカニズムみたいな話をしてくれて、自分だけじゃなくみんなオシムさんの言葉に聞き入っていた感じがあった。
(最後にFKを与えた)不必要なファウルだったとオシムさんが凄い剣幕で阿部ちゃんに怒っていたのも覚えている。もちろん阿部ちゃんに期待しているからこそ。国と国の戦いになる代表はやっぱりつぶし合いだし、それくらいの気持ちじゃないとダメなんだと伝えたかったようにも思えた。オシムさんがああやって怒ったことで、何よりチーム全体にスイッチが入った。ワンプレー、ワンプレーをちゃんと責任感持ってやっていこう、と」
2戦目のUAE代表戦は3-1、3戦目のベトナム代表戦は4-1と快勝してグループリーグを突破。中村も2試合連続でゴールをマークする。
準々決勝はPK戦の末にオーストラリア代表を下したものの、サウジアラビア代表との準決勝は2-3で競り負けて3連覇が途絶える。ハノイを離れてインドネシア・パレンバンに移動して行なわれた韓国代表との3位決定戦は、退場で1人少ない相手を攻めきれずにスコアレスで120分間を終え、PK戦で敗れた。
課題もあれば、収穫もあった。オシムから吸収しつつ、大会で結果を残そうと全体のモチベーションは高かった。チームとして前進できた感触は中村にもあった。
韓国戦の後、オシムには直接こう言われたそうだ。
「もっと走らない選手かと思っていたら、そうじゃなかった。考えながら、君はよく走っていた」
指揮官が求めていたことを実践できていると、つかめた瞬間でもあった。
欧州に遠征した9月の3大陸トーナメントではスイス代表との打ち合いを制して優勝を果たしている。中村もまさに勝利を手にすべく、ピッチで奔走した。
オシムジャパンへの期待感が高まるなか、ショッキングな出来事が起こる。この年の11月、オシムが脳梗塞で倒れ、命の危機を乗り越えたものの当然ながら激務を伴う代表監督を退任することになった。
合流してからまだ半年あまり。オシムジャパンが完成形に向けてどう進んでいこうとしているのか、中村自身もイメージはできなかったという。
「チームづくりの第1章はこれだ、とか別に提示もしないし、今が第何章なのか、そもそも何章まであるのかが分からない。選手も探りながらやっているから、答えの分からない塾に通っているような感覚だった。でもやりたかったのは、現代のサッカーに近いはず。サッカーの未来を見据えたうえでオシムさんはチームをつくろうとしていたんだと思う」
回答が分からないから常に考えるクセがつく。
止まっちゃいけない。走って、考えて。
オシムの教えが中村にとって大きな財産になったことは言うまでもない。
(第6回に続く)
(取材・記事=二宮寿朗)
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