絶対に、やってやる――。

それほどの決意を込めて、中村俊輔は2004年のアジアカップ・中国大会に臨もうとしていた。レッジーナでの2シーズン目は消化不良に終わっていた。足首、ひざ、腰などケガが相次いで長期離脱を余儀なくされ、チームに戻ってもベンチに回った。

わずか16試合の出場にとどまり、背番号10の輝きを放つことはできなかった。

 

「このシーズンはレッジーナで自分らしいプレーができなかった。ずっともがいていた。こういう状況で、もしアジアカップでダメだったらジーコからの信頼も失ってしまうかもしれない。気合いが入っていたというか、(信頼を)つなぎ止めることができるか、それとも手放してしまうか、もうどっちかだと思っていたから。レッジーナはセリエA残留が現実目標になるので、どうしても守備的に戦わざるをえず、リーグ自体も強いからなかなか自分のプレーというものを出しにくい。ただ代表に行くと、それを出せる。イタリアであまり良くないシーズンを送ってきて、ここで自分を取り戻さなきゃいけないという思いが相当に強かったと思う」

 

欧州でプレーする選手の参加は、レッジーナ(イタリア)の中村と、ノアシェラン(デンマーク)の川口能活のみ。レバノン大会に続く2連覇への期待が高まる一方、ベストメンバーがそろわなかったことに対して不安視する声もないわけではなかった。だが中村の頭には「優勝」の2文字しかなかった。

中国に赴き、それはイバラの道だと思い知る。

7月20日、グループリーグ初戦となったオマーン代表との一戦。反日感情がうずまくスタジアムは、日本がボールを持つだけでブーイングに包まれる。かつ酷暑で知られる重慶の夏が、体力を吸い取っていく。ピッチのコンディションも良くなく、思ったようにパスも走らない。「完全アウェイ」の様相を呈していた。

 

オマーンはアジア屈指のGKアルハブシを中心とした堅守速攻のチーム。5カ月前のドイツワールドカップ、アジア1次予選においても日本は苦しい戦いを強いられていた。

 

立ち上がり、動きがいいのは明らかにオマーンのほう。そのような状況のなかチームを救ったのが中村だった。

 

前半34分、相手のクリアミスをペナルティーエリア前で拾うと鮮やかなボールタッチで相手2人をかわす。体を反転させながら左足アウトサイドでゴール右に流し込む芸術的な一発であった。

 

「体が勝手に動いた。自主練習をやってきたおかげかなと思う。この角度でボールを持ったらどうプレーすればいいんだろうとか、いろいろと考えたり、試したりして、意表を突くのは常に頭に入っていること。体に染み込ませてきたからアドリブで出すことができた。日ごろからやっていないと咄嗟にあんなプレーはできないから。難しいゲームになるなと感じていたなかで、前半のうちに均衡を破れたのは良かった」

 

オマーンを1-0で振り切り、続くタイ代表戦でも直接FKを決めて2試合連続ゴールをマークするなどチームは4-1と快勝。イラン代表とのグループリーグ最終戦はスコアレスドローで決勝トーナメントに進んだ。

本当に苦しかったのはここからだった。

ヨルダン代表との準々決勝は、PK戦の末に何とか突破。宮本恒靖キャプテンが主審にエンドの変更を要請して認められたことを境に、川口がビッグセーブを連発して危機を救った。バーレーン代表との準決勝は、後半に逆転しながらも再び勝ち越されてしまう。それでも終了間際に中澤佑二のゴールで追いつき、延長に入って玉田圭司のゴールでケリをつけるというまさに死闘であった。

 

「前回のレバノンと違って、対戦したどの相手も強く感じた。ヨルダン、バーレーンとの2試合もかなりきつかった。でも試合をこなしながら、チームとして仕上がっていくような感覚があった。みんな気持ちが入っていたし、ジーコもそうだった。恒さんがプレスの掛け方を提案したら、ジーコもそれに合わせてやってくれた。仕上がっていくから、先に点を取られようとも焦らなかった」

日本の得点源になったのがセットプレー。ヨルダン、バーレーン、そして決勝の中国代表戦といずれも中村の左足が味方のゴールを導いている。

 

「ボンバー(中澤佑二)や(中田)浩二も含めてセットプレーに強い選手が多くいたから。でも一番狙っていたのはフクさん(福西崇史)。中への入り方がうまくて、ジャンプ力もある。降らせるようなボールを送れば、上から叩いてもらえるから、わざと滞空時間が長く取れるボールにした。あとタカさん(鈴木隆行)が体を張って、前でファウルをもらってくれた。暑くて体力を奪われるなか、相手陣営で少しでも休めるのはありがたい。相手にプレッシャーが掛かる一方で、自分たちはチャンスだって思える。これはもうタカさんのおかげ」

 

決勝は3-1と快勝し、アジアカップ2連覇を達成。6試合すべてにフル出場した中村は大会MVPに選出された。そして彼がこの大会でもう一つ得た大きな体験は、サブに回った年長者の選手たちの振る舞いであった。

 

中村は言う。

 

「(藤田)俊哉さん、アツさん(三浦淳寛)、そしてマツさん(松田直樹)……おしぼりを持ってきてくれたり、声を掛けてくれたり、試合に出られないストレスを抱えながらも、チームを後押ししてくれた。自分も南アフリカワールドカップの際に同じような立場になって、自分もそうしなきゃいけないと思えた。チームはそうやって一つになっていくものだから」

 

日本代表で自分を取り戻すというミッションを完全アウェイの舞台で見事に成し遂げた。

 

2004~05年シーズン、レッジーナで新監督に就任したワルテル・マッツァーリからは「アジアナンバーワンのプレーヤー」と称賛され、中村はチームでも再び中心に君臨するようになる。

 

「もちろんレッジーナでもちゃんといい働きをしないといけない。チームに戻ってきて特に1発目の試合はとても大事にしていた。その間、自分のポジションを奪おうと必死にアピールしている選手がいるなかで、やっぱり自分を使いたいと思わせなきゃいけないから。代表は、自分にとって一番の薬。長距離移動して代表に参加しても、逆に良くなって帰ってくると監督に思ってもらったら、代表でチームを離れるとなっても何も言われなくなる。実際そのようになった」

 

不退転の決意を持ってつかんだ成功体験。日本代表で自分のプレーをして勝っていけば、チームでも認められ、自分のプレーを落とし込めていく。それが中村のサイクルとして確立していくことになる。

 

(第4回に続く)

 

(取材・記事=二宮寿朗)

©️Sports Graphic Number/©️JFA

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