「10番をつけさせてもらったことが、凄くモチベーションになった。」
2000年のミレニアムは、中村俊輔にとって飛躍の1年となる。
シドニーオリンピックでも横浜F・マリノスでも10番を託され、A代表にも食い込んで優勝を遂げたアジアカップ・レバノン大会ではベストイレブンに輝いた。そして当時史上最年少の22歳でJリーグMVPを受賞している。
「2000年はあらゆる面で一番成長できた年だと思っている。クラブでもオリンピックでも10番をつけさせてもらったことが、凄くモチベーションになった。いろんな試合をこなしたけど、疲れなんてなかった。それほど充実もしていたし、逆に言えば必死でもあった」
中村はそう言って時計の針を23年前に戻した。
9月に開催されたシドニーオリンピックでは絶好調の彼がいた。
南アフリカU―23代表とのグループリーグ初戦、フリーキックから高原直泰の同点ゴールをアシストしてチームに勢いをもたらす。
フィリップ・トルシエ監督から本来のトップ下ではなく左サイドを任されるなか、アイデアと確かな技術で日本のチャンスを生み出していく。
準々決勝の相手は、アメリカU-23代表。
ここで勝つことができれば、「アステカの奇跡」と呼ばれた1968年のメキシコオリンピック以来となるメダル獲得も現実味を帯びてくる。
奪った2点、いずれも中村が演出した。
直接FKが相手の壁にあたってこぼれたところをマイボールにして、右ペナルティーエリア外からフワリとしたボールを右足で送り、柳沢のヘディング弾をアシストした。2点目は左足の絶妙なクロスで高原の頭に合わせ、一度弾かれながらも左足で押し込んだ。
「本当にやりやすかった。タカはくさびもできるし、裏に抜けることもできる。動きの質、ゴール感覚にも優れていて、もちろんヤナギさんも動きの質が凄く高かったし、2人にパスを引き出してもらった。結果、PK戦の末に敗れてしまったけど、そこまでに勝たなければならない試合だったとは思う。大会通じて、少しトップ下をやれる時間もあった。自分のプレーができたし、成長できているのが実感できた大会でもあった」
翌10月にはA代表で臨むアジアカップ・レバノン大会のメンバーにも続けて選出される。
2カ月連続のビッグイベントにも、コンディションは維持できていた。
グループリーグ初戦のサウジアラビア代表戦に4-1、2戦目のウズベキスタン代表戦も8-1と2試合続けての大勝。〝日本強し〟をアジアに印象づけた。
「確かに、点差がついて勝つ試合多かった。これまで先輩たちのアジアとの戦いを見ても、僅差のゲームが少なくなかったから、本当にこのままいくのかなっていう思いもあった」
14番を背負い、ポジションはオリンピック同様に左サイド。だがボランチに入る名波浩と効果的にポジションチェンジを繰り返しながら中央でゲームを組み立てていく役割も担った。
「名波さんが自分に気を遣ってくれたんだとは思う。自分が中に入ってボランチっぽくなったときに自分のプレーをちょっとでもできると、チームにこういう貢献もできるってアピールすることもできた」
その名波とは伝説となった連係プレーがある。
準々決勝のイラク代表戦。
直接FKでゴールを狙うのではなく、逆サイドにいるノーマークの名波にパスを渡して豪快なボレーシュートを呼び込んでいる。
決勝のサウジアラビア代表戦も中村の左足が光った。
グループリーグの初戦と違って、1点を争う緊迫したゲームになった。
前半30分に左45度の角度からセットプレーのチャンスを得る。
そのボールは高原、西澤明訓を越え、ファーに走り込む望月重良に送られた。
「中に(マークが)密着しているなか、上からボールを降らせるようにしてマークをずらして、ファーにうまく望月さんが走り込んでくれた」
優勝に大きく貢献して大会のベストイレブンに選ばれた。
だが本人の感想としては「ホッとした」ということくらいだった。
「誰がA代表に定着して試合に出ていくことができるか。全員が競い合うアピールの場所でありつつも、しっかりとチームになっていたと思う。まずは与えられたポジションでいいプレーをしないといけない。そうじゃないとメンバーに残っていけないから。(アジアカップは)森島(寛晃)さんがトップ下をやっていて、トップの西澤さんとの関係性が抜群だった。近くで見て、動き方を学んだ。得意なポジションで得意なプレーを出せていたわけでもなかったから、優勝できたとはいっても満足できていなかった」
外からは輝かしい活躍に見えても、本人に余裕などなかった。
横浜F・マリノスでは中心を担うようになっていた。マンマークで対応されることも多くなった。アルゼンチンの名プレーヤーとしても知られるオズワルド・アルディレス監督はそれでも「ナカムラがボールをもらいに来たら、絶対にボールを出せ」とチームに指示を出した。中村には「君は相手をなぎ倒すつもりで攻めろ」と伝えていた。放任主義だった指揮官から唯一、要求されたことでもあった。
「自分がマンマークを振り切ったら、視界がバッと広がるということ。そうしたらチャンスが増えるし、チームは活気づいてくるから。アルディレスやジーコたち名選手は感覚で話すこともあるけど、(受け手が)噛み砕けるかどうか、それを拾って自分のものにできるかどうかだと思った」
ファーストステージを制したものの、チャンピオンシップでは鹿島アントラーズに敗れて悔し涙を流した。ただ1シーズン通してのパフォーマンスを高く評価され、リーグMVPを手にした。あっという間の1年だった。
「ようやく土台に乗れたと思えた1年。でも全然、十分じゃないし、得点、アシストを増やして、抜けた存在にならなきゃいけないと思っていたから」
一つ壁を乗り越えたら、また新たな壁が出現する。
2001年3月にはアウェイでのフランス代表との国際親善試合において0-5と大敗を喫した。「サンドニの悲劇」は中村のターニングポイントにもなった。
「(ジネディーヌ・)ジダンは固定式のスパイクで(ぬかるみに)足を取られることもなく、普通にプレーしていた。これじゃ世界に置いていかれる。欧州に早く行ってプレーしなきゃと思わされたゲームになった」
満足感なく、危機感ばかり。
それが中村を成長のサイクルへと誘っていくのである。
(第3回に続く)
(取材・記事=二宮寿朗)
©️JFA/©️J.LEAGUE