〝浸れる場所〟と言ったら三ツ沢しかない。

 

 

ニッパツ三ツ沢球技場は、中村俊輔にとって「特別な場所」だ。

 

 

1964年の東京オリンピックでもサッカーの会場として使用された歴史ある球技専用のスタジアム。

 

小学生のころJSL(日本サッカーリーグ)日産自動車と読売クラブの黄金カードを初観戦した記憶は今も鮮明に残っている。

 

別にこの試合をお目当てにしていたわけではなく、地元のスタジアムに「父親に連れられて何となくふらっと立ち寄る感じ」だったそうだ。

 

 

 

「ホーム側のゴール裏自由席になっているところから観た景色は今も覚えている。あのころは電光掲示板がそこにあって、コンクリートの席に座って……。お互いの10番に自然と目が行った。それが読売のラモス瑠偉さんと木村和司さん。テクニックの読売と、組織力の日産という感じで、日産のホームだから和司さんがボールを持つと凄い歓声だった。小学校の中学年だったけど、もっと上の世界に行ってみたいと思えた自分の原点」

 

 

憧れ目線から、プレーヤーとして目指す場所へ。

 

深園FC時代に兄とともに横浜市の大会で優勝したときもここだった。

 

 

 

「小学生のころは練習も試合も基本的には土のグラウンド。でも大きな大会で決勝とかになると三ツ沢でやれたから、特別感があった。日本のトップの人たちがプレーする場所だし、何より天然芝で試合ができるのがたまらくうれしかった」

 

 

 

 

横浜マリノスのジュニアユース時代には試合のボールボーイを務め、ハーフタイムに入ると木村に呼ばれて、ボール回しをしたこともあった。

 

木村がセットプレーを蹴ると、食い入るようにして見つめた。

 

 

たびたびここで試合をするようにもなった。

進学した桐光学園でもそうだった。

 

高2のとき、全国高校サッカー選手権の神奈川県大会決勝で淵野辺を2-0で破り、初めて全国への切符をつかみ取った。

 

 

「高1では試合に出られなくて、身長がグンと伸びた高2になって絡めるようになった。先輩たちとも一緒にプレーできて三ツ沢で優勝できて、ちょっとずつ自分も成長できているんじゃないかって思えた」

 

 

朝早く家を出て、7時前から誰もいないグラウンドでの個人練習を日課とした。

 

夕方からの全体練習後も照明が消えるまでボールを蹴った。

 

散髪する時間までもったいないと、副担任の先生に切ってもらっていたのは有名な話。

 

3年時には高校選手権で準優勝を経験した。

 

努力によって才能は花開き、注目される存在になっていった。

 

 

 

高校卒業後の1997年、マリノスに加入する。

18歳ルーキーの出番はすぐにやって来た。

記念すべきリーグ戦デビューは4月16日のガンバ大阪戦だった。

場所はやはり三ツ沢だ。

 

0-4になった後半10分、バルディビエソと交代してピッチに入っていくと大きな拍手が注がれた。

だが反撃できないままに終わってしまい、ほろ苦い初陣となっている。

 

 

 

「試合を映像で見返したときに、全部と言っていいくらいタッチミスしていた。起用してくれた(ハビエル・)アスカルゴルタ監督や、一緒にプレーした先輩たちに申し訳ないなって。それでも監督はずっと使い続けてくれたし、先輩たちもカバーしてくれた。ああやれ、こうやれとも言われなかったし、好きなようにやっていい、どんどん失敗していい、と。交代で入ってくる選手が活気づかせるどころかミスをしまくるんだから、本当に迷惑を掛けていたと思う。ゲームにスムーズに入っていけないもどかしさが強くあったから、とにかくすぐに自分のレベルを上げていかなきゃいけないと思うと練習しまくるしかなかった」

 

 

 

プロの厳しさを教えてくれた原点もまた三ツ沢であった。

 

当時は午前の全体練習後、個人で練習することは禁じられていた。

 

ただ中村のあまりに強い意欲に押され、居残り練習は暗黙の了解ともなった。

 

プロになっても練習の虫。

 

 

日々の鍛錬が急速なレベルアップを呼び込み、1年目から主力へと成長していった。

 

 

その後の活躍は言うまでもない。

 

 

三ツ沢で育った偉大なるレフティーは日本代表において長きにわたって背番号10を背負って戦い、イタリア、スコットランド、スペインでもプレーした。

 

セルティック時代、欧州CLでマンチェスター・ユナイテッドを相手に2試合続けて直接FKを決めたシーンは、今も伝説として語り継がれている。

 

30年に及ぶJリーグの歴史において2度、リーグMVPを獲得しているのも中村だけだ。

 

 

 

 

 

 

2019年7月、その中村が三ツ沢に帰ってきた。

 

ジュビロ磐田から横浜FCに完全移籍し、再びここが本拠となった。

 

 

「カンプノウやサンシーロといった有名なスタジアムでも試合ができたし、セルティックパークにも相当な思い入れはある。でも、自分のなかで〝浸れる場所〟と言ったら三ツ沢しかない。だって自分が子供のころからここでボールを蹴っているんだから。横浜FCに来たとき、また三ツ沢でやれるんだと心が躍るような感覚はあった。ロッカールームも、シャワールームもちょっとずつキレイになっているけど、特別な場所ってことはずっと変わらない」

 

 

 

三ツ沢での現役ラストゲームとなったのが2022年10月16日、ツエーゲン金沢戦だった。試合前にJ1昇格が決まり、お祭りムードのなかで中村は後半28分からピッチに入った。

 

約30m、ほぼ正面からの直接FKが相手GKに弾かれ、終了間際には珍しくヘディングシュートを見舞ったが、これも防がれている。

 

 

 

 

「(ヘディングは)GKのいないほうに打てば良かったのに、敢えて逆をついて、いるほうに打ってしまった。あそこは決めないとダメでしょ」

 

 

 

三ツ沢は最後、ご褒美をくれなかった。

 

いや、満足させないからこそ次の努力を促すのかもしれない。

 

 

 

観客もいなくなったピッチで家族と一緒に写真に納まる彼がいた。

 

浸るように、名残り惜しむかのように、スタジアムを見渡していた。

 

この試合の翌日、現役引退が明るみになった。

 

 

 

あれから1年2カ月――。

 

 

2023年12月17日、引退試合「SHUNSUKE NAKAMURA FAREWELL MATCH」が用意された。

 

 

日本代表や横浜FCで一緒に戦った仲間たちと一日限りの〝復帰〟を果たす。

 

 

「引退してこのような場を持たせてもらうというのは当たり前じゃない。横浜FCをはじめスポンサー、集まってくれる選手、そして応援してくれたファンの方々……感謝の気持ちをしっかり伝えたいし、その気持ちを込めてプレーしたい」

 

 

 

 

中村俊輔のストーリーをつむいできた場所――。

 

 

ラストを飾るには、やはりここ三ツ沢がふさわしい。

 

 

 

 

(取材・記事=二宮寿朗)

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